
昭和23年、自宅の一部を改造しミニ店舗開店
一家が満州(中国東北部)から引き揚げ後、奥様が自宅の一角で始めたミニ食料品店。大福(10円)、煎茶、饅頭、豆腐、干菓子などがアイテム。戦後間もないころで、多くの食品が統制品だったため、碑文谷署に調べられたことが一度あったとか。
提供:向野元生さん(鷹番2丁目)
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昭和27年3月、時折車が通る静かな目黒通り
右後方は「目黒市場」といわれた現在の清水市場。
提供:小宮寿夫さん(中央町1丁目)
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昭和26年、碑文谷1丁目町内婦人会が自宅付近の側溝の清掃
場所はバス停「円融寺前」です。
提供:谷村ヒサさん(碑文谷1丁目)
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写真左と同方向、現在
2013.5.4撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和27年、鬼子母神・法界塚から円融寺方面を望む
碑文谷鬼子母神・法界塚は目黒本町6丁目、後方の道の右側は目黒本町4丁目、左側が碑文谷1丁目です。
提供:中村 守さん(目黒本町6丁目)
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写真左の鬼子母神前、現在(2013.5.4)
碑文谷鬼子母神の前の道が見間違えるほど拡幅されました。右方向が平和通り。
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和28年夏休み、円融寺で子供会のラジオ体操
この年、碑文谷1丁目周辺の子供会“みつばち子供会”が発足、目黒区議・谷村ヒサさんが初代会長で世話役に神崎新吉さんと新塚喜久太郎さんが当たり、子供たちの面倒を見ていました。
提供:萩原正徳さん(目黒本町3丁目) |
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昭和28年、トラさんも学芸大学の住人!
フーテンのトラさんこと、渥美清(本名・田所康雄さん)は、てっきり葛飾柴又の住人かと思っていたら、本物の“トラさん”がゴム草履ばきで自転車に跨ってよく学大の街に現れました。
きょうは、バス通りのマスヤ酒店に買い物に来て、朝日生命のオバさんにせがまれ写真に。
提供:マスヤ酒店(鷹番2丁目)
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昭和29年都立大〜学芸大駅間を5000系電車の試運転
昭和28年、在来の電車と同じ形態の新車3800型がデビューしましたが、なぜか2両しかつくられませんでした。
ところが翌28年、世間をあっと言わせた新車が現われたのです。それが軽量モノコック構造、直角カルダン台車をつけた5000系でした。
同年4月から5月にかけ第一編成が試運転ののち営業につきましたが、乗り心地といい、スピード感といい、それまでの電車とは比較にならないものでした。
しかし、その後、7000系、8000系にとってかわり、大井町線、目蒲線などで活躍しました。さらにその後、この5000系は長野電鉄はじめ各地の私鉄で2度目のご奉公で活躍したのです。
文・撮影:藤田幸一さん(練馬区南大泉)
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昭和57年1月、写真左と同じ場所、東急ゴルフ練習所脇
撮影:藤田幸一さん(練馬区南大泉)
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昭和29年9月、戦後初めて神輿を造った月光町の祭り
まだ、お揃いの半纏までは余裕が無さそう。でも皆さんの顔に喜びが溢れています。
なお、「月光町」の町名は、江戸時代このあたりの田畑が月明かりに照らされていたという幻想的な美しい光景を連想する由来でした。それが昭和41年に廃止され、画一的で味気ない町名「目黒本町」に変わりました。
提供:キミン堂薬局(目黒本町6丁目)
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昭和29年12月、碑小でみつばち子供会のパーティー
写真中央が「みつばち子供会の歌」を作曲した歌手の松平 晃さん(碑文谷1丁目在住)、右から3人目が初代会長で目黒区議・谷村ヒサさん。
提供:谷村ヒサさん(碑文谷1丁目)
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