校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集:岩田忠利

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NO.11
昭和27年〜30年、都立大学地区の情景
時には赤トンボやホタルの棲家、時には濁流となって襲う呑川


昭和27年、八雲1丁目を流れる呑川

 前川正男著『呑川物語』から
〜〜
私の家の前を呑川という不思議な名前の小川が流れていた。40年前、当地に引越して来た頃、まことに、のんびりした田園風景の地であった。
 まわりは、ほとんど畑で、ヒバリの舞いあがる声も緑の風に乗って流れてきた。呑川は、さらさらと美しい水を流していた。土手には、適当に雑草が茂り、秋には赤トンボの群れが、川を上下していた。その頃私の長女は、赤トンボを追いかけて、ドブンと川に落ちて大騒ぎしたこともあった。夕闇迫る頃ともなれば草むらに点々と、螢の灯が明滅していた。〜〜

 右手の家は前川正男さん宅と前川さんの工場。
 提供:前川正男さん(八雲1丁目)



  写真左の場所、現在(2013.5.4)

 写真左の左岸後方に前川家所有の木造アパート「八雲荘」がありましたが、築80年弱で、今なお“健在”です。
 撮影:岩田忠利












昭和27年、中根橋と目黒通り

 前川正男著『呑川物語』から
〜〜昭和339月の狩野川台風の時は、この辺は大変で、角のM洋菓子店(写真右)やS酒店(写真正面)は胸くらいまで濁流につかった。しかも、この目黒通りは右も左も高台になっているため、集中豪雨は奔流となって、S酒店の前に集合し、巨大なウズとなって店に乱入し、缶詰、ビン詰、酒、醤油、あらゆる商品は一瞬のうちに濁流にまき込まれてしまった。〜〜

 提供:前川正男さん(八雲1丁目)



  写真左の中根橋と目黒通り、現在

 右後方の車は目黒通りを通る車です。呑川が暗渠化されて緑道になり桜の木もこんなに大木になりました。
 2013.5.4撮影:岩田忠利






                あのころの風物詩
          昭和28年1月、正月の梯子乗り

 目黒通りに面した鈴木商店の隣に目黒消防署衾出張所の「火の見やぐら」があり、毎年正月には地元とび職の人たちによる梯子乗りが披露されました。
 
提供:鈴木武夫さん(八雲3丁目)


      昭和29年、八雲2丁目の畑のある風景

 右手の道は都立大学付属高校前の道。まだ未舗装でトラックが砂ぼこりを上げて坂の上の交差点「八雲」に向かう。その後方の道は自由通り、2台のトラックも交差点「八雲」に向かっています。
 提供:八雲小学校(八雲2丁目)











  昭和28年2月、中里橋から望む雪の呑川と中根小学校建設予定地

 右手の原っぱが中根小学校建設予定地、丘の上の住宅は緑が丘1丁目2番と4番です。

 提供:栗山佳也さん(平町1丁目。栗山生花店)


   写真左の現在の中根小学校

 呑川が緑道になった今、中根小学校は緑道をはさんで左側を体育館などがある運動場、右側を校舎、それを桜の木の裏に見える陸橋でつなげています。
 写真左後方に見える鉄塔は、桜の梢の上に頭を出しています。

 2013.5.7撮影:石川佐智子さん(日吉)


      昭和29年、目黒区最古の小学校、八雲小の正門

 甲斐武田家の子孫、新倉塘十郎という人が幕末、柿ノ木坂(今の環七あたり)に寺小屋を開きました。やがて子弟は衾村全域に及び、手狭になったので無住の荒寺金蔵院を手直して引き移ったのです。
 この寺小屋は明治4年に「太子堂郷学所」の分校になり、その時の生徒数は98名でした。
 明治5年学制が発布され、「第二中学区五番小学八雲学校」となり、明治7年112日に開校式を挙げました。

  文・撮影:前川正男さん(八雲1丁目)


写真左の現在の八雲小校舎と正門

2013.5.4撮影:岩田忠利










  昭和29年、目黒通りが電車の上を通っていた頃

 昭和20年代最後の年、まだ駅の周辺は戦前のたたずまいが、残っていました。「改正道路」と呼ばれていた目黒通りは、駅前の区道にぶつかった所で途切れ、そこからは引き揚げ者マーケトになっていました。その裏の空地ではよくドサ回りの芝居小屋がかかっていたものです。
 写真は、渋谷へ向う田園調布折返しの5000系電車、500350525004、同系の第2編成で出来たてのホヤホヤでした。オーバークロスする橋は目黒通り。今は目黒通りが右の写真のように、逆に高架の下を通っています。

  文と撮影:藤田幸一さん(練馬区南大泉)



昭和57年1月、目黒通りが東横線線路下を通る風景

撮影:藤田幸一さん(練馬区南大泉)












 昭和30年、常円寺住職が文化会館を建て、オーブン!

 常円寺住職・古河俊良さんは地域住民の文化活動振興のため境内に文化会館を建てました。この会館では落語・浪曲・講演・映画会などが催され、桂文楽・三遊亭志ん生・宇野重吉ら多くの著名文化人が登場、地域文化の拠点として親しまれてきました。
 提供:常円寺(八雲1丁目)





   昭和30年、映画スター・若尾文子を囲んで

 「映画会」を設立、大映スタジオを見学のとき。前列左が常円寺先代住職・古河俊良さん、その後が金野好治元区議(横向き)、右端に前川正男さんら同会幹部。
 提供:前川正男さん(八雲1丁目)

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