編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利        NO.264 2014.10.03 掲載
投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 

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戦争
百日草の詩(11)
進路のこと(T)

  
 両親の母国の土を踏む



     小学3年に編入学


 
栗原一家が、玉砕の島サイパン島から引き揚げてきたのは昭和21年1月下旬のことだった。

 浦賀の地を踏むことができたのは6人家族のうち母・すぐ下の弟(利夫)・わたしの3人きりだった。住む家がないのでとりあえず父の生家である叔父の家に身を寄せることになった。(本籍地は神奈川県中郡旭村(現平塚市)万田)

  戦禍と1年半に及ぶ抑留生活(ススペ民間捕虜収容所)によって、2年有余もの長きにわたって学校教育に縁のない日々を送った利夫とわたしは、再び学校に通えるようになった。
 従兄弟たちと麦畑に囲まれた小さな木造校舎の石門をくぐったのは同年2月上旬だった。石門に「旭村国民学校」と校名が刻されていた。奉安殿は撤去されたのか、目にすることはなかった。

 学齢に従えば4年生のところ、3年生への編入学となった。学校長の判断だったのだろうか、学習の空白の長さが考慮されたのだった。担任は二宮奈津江先生。女学校を卒業したばかりらしく若々しく清楚な感じの女教師だった。

 
大山から吹き下ろす寒風は肌を刺したし、2月の日差しは弱かった。が、級友たちはみなやさしかった。



生れて初めて見る本土の山河…

    空白2年有余後の教室


 
長く遠ざかっていたためか、授業を受けることはこの上なく新鮮な体験だった。眼前にみる教室風景は記憶にある島のそれとは大違いだった。

  黒板の前にあったはずの教壇が無なかった。戦時下の学童たちはみな、教壇中央の高い位置から見下ろす担任の視線に緊張を強いられていたのだったが……。正しい姿勢を示す掛け図も見ることはなかった。

  二宮先生は、わたし達に考えさせ判断させるような問いを発した。加藤君はよく通る声で自分の考えを述べた。体が大きくぽっちゃりした感じの青柳君は指名されると的確な反応をした。熊沢君も活発に発言し彼らしい主張をした。


伯父の家(現平塚市)で従兄弟たちと
サツマイモの苗床の前で。
後列真ん中が著者、前列右が弟・利夫くん

  先生の話に行儀良く耳を傾けるだけで、「君の考えは?」と問われた記憶がない戦時下の教室を想起するにつけ、ただただ驚いているわたしだった。「ネギ」の写生をした図画工作の時間、机・椅子を移動したグループ学習は初めての体験だった。

  休み時間や放課後、先生が教室でテストやノートの処理をされることがあった。級友たちが教卓を囲むようにして先生の赤ペンが描くハナマルをうっとりと眺めたりした。時には誰かが先生に話しかけたりすると先生も子ども達の話題につり込まれたりした。その都度赤ペンの動きが止まった。担任と教え子たちがうち解けあって談笑する様子をわたしはずっと後ろの方から眺めていた。島の教室では一度も経験したことのない風景だった。

  わたしの教師に対する接し方はいまだ戦時下のままだった。授業中尿意を催しても担任にそのことを話せない程だった。


              同じクラスの子どもたち、戦時中と戦後の集合写真
         
(静岡県小笠郡佐倉村立国民学校生徒)       提供:中山文江さん(保土ヶ谷区川島)



         戦時下の子どもたち

男女とも胸に名札を付け、どの子の姿勢も背筋を伸ばした同じ姿勢…。戦時下の教育が徹底しているようです


      終戦直後、写真左の子どもたち

戦争からの解放感からか、生徒の服装や姿勢が多様化。先生の姿勢にもリラックスしている様子が読み取れます



    墨塗り教科書と新教育


 
わたしを最も驚かせたのは墨塗りの教科書だった。
  先生から渡された教科書にはすでに墨が塗られていた。国定教科書は天皇陛下から賜ったもので、大切に扱うように……と徹底的に指導されてきた、かつての軍国少年には考えられないことだった。
  軍国主義的教材、海外侵略的教材等はみな墨が塗られたのだった。教科書から「ヘイタイサン」が消えた。

  人生最初の学校教育によって、「ぼくは将来ヘイタイサンになるのだ」と思うようになっていた。国定教科書と教師による授業の刷り込みは完璧だった。

  暗いランプの周りで展開された一家団欒の一コマを思い出すことがある。
  両親の前に進み出たわたしは、海軍式の敬礼で
 
「ぼくは海軍になります」
  続く利夫が陸軍式で、
 「ぼくは陸軍になります」
 父は満足げにうなずき笑顔を見せた。
 サイパンが戦禍に遭う前のある晩のことである。

 引き揚げ船のデッキから浦賀港に翻る星条旗を目にした。この瞬間、軍国少年のわたしは祖国の敗戦を認めた。

 内地では昭和20年8月15年を境に新しい国に生まれ変わった。
 文部省(当時)は同年9月
15
日「新日本建設ノ教育方針」を公表した。従来の教育における戦時体制を一掃し、平和的な文化国家、道義国家を建設するために必要な文教政策の一環として出されたものだった。


  昭和21年3月、日本に民主的な教育制度を建設するためアメリカの教育使節団が来日し報告書を公表した。
  教師が教科書のみによって、知識を一方的に注入するなど画一主義を廃し生徒の個性の発展をはかり、教師の活動を、あらゆる拘束から解放して自由な民主的日本国民を育成することなどがその主たる内容であった。

  麦畑のなかの小さな木造校舎のなかでも着実に新しい教育に向けた実践が試みられつつあった。
 ススペのキャンプで抑留生活を送っていたわたしは、玉音放送など歴史の重要な節目に立ち合えなかったこともあって、戦時中の生き方をいつまでも精算しきれずにいたような気がする。
 こんなわたしだったけれども将来「ヘイタイサン」になる夢だけはあり得ないと思い始めていた。



      墨で塗られた教科書

 終戦直後の教科書は、戦時中の教科書(右)を使っていた。軍国主義を鼓舞する表現は、左の教科書のように墨で塗りつぶされた
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