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膨張する江戸の人口を支える飲料水として、また近郊農地の灌漑用水として1654年に開通した玉川上水。
その水は羽村で多摩川で引水、江戸・東京の上水道の基幹として、昭和40年代まで流れ続けた。
三田用水は、この上水の23の一つで、世田谷・目黒・渋谷・品川・港各区の一部の農地を潤し、産業の発展に寄与したものである。
江戸時代に開削された用水も、明治・大正・昭和と時を経るに従い、流域の都市化によって需要を失い、昭和49年、廃止された。今や、その用地跡も道路や家やマンションに変わり、痕跡も薄れてしまった。使命を終え、無用となった用水は、ただ消えゆくのみである。
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三田用水の前身
三田用水の歴史は古く、1657年(★明暦3年)に開削された細川上水と、1664年(寛文4年)開通の三田上水が、その前身である。
<上記★明暦3年1月には江戸時代最大の火事といわれる“明暦の大火”が起きた。4代将軍・家綱の江戸城本丸・二の丸・天守閣をはじめ江戸の町の大半を焼失した。そのため、細川上水の構築は防火用水としての役割も大きかったのではないかと考えられる。記・岩田忠利)
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両用水は、世田谷区北沢において玉川上水の分水を受け、ごく短い間隔をあけ、並行して流れていたという。掘られた時期も流路もほとんど同じであり、不効率であるように思われるが、その性格はかなり異なる。
即ち、前者は、高輪の熊本城主、細川越中守の下屋敷(現高松宮邸)の専用上水であり、後者は、その先の芝・西応寺に通じ、また途中、徳川綱吉の別邸・白金御殿および薬園に分水する公共上水路であった。
1722年、幕府(吉宗の時世)は両上水および青山・千川・亀有上水を廃止。これは過去1世紀の大火の頻発と、同時期に上水道を次々に建設したこととの偶然の一致にこじつけて、「水道は火事の因(もと)」という全く不条理な理由をつけて成されたものである。
この頃になると、井戸もかなり普及しており、市民の生活にはさしたる混乱もなかったが、困るのは農民である。沿岸14か村の農民は、上水(主に飲用)の用水(主に農業用)への転用を幕府に請願。2年後、両上水は払下げられ、三田用水として一本化された。
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用水を用いた松平下屋敷の千代ヶ池。
安藤広重「名所江戸百景」より
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京王線笹塚駅近く、今なお自然の流れが見られる玉川上水(左)と三田用水取水口(右)
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立地と農業
高所から低所へと流れる「水」の性質上、用水路は、微かに勾配をつけながらも海抜高度をほぼ一定にしたルートをとらねばならない。
三田上水=用水の場合、北沢の取水口から駒場〜代官山〜目黒駅〜高輪台と、目黒川(NO.140「沿線の河川」)と渋谷川(次号・NO.155)の分水嶺を経て、海辺の芝へと流れていた。この立地は、流域各区における最高所であるから、水を遠方へ運ぶのに有利であると同時に、給水面でも極めて好都合であった。
三田用水の分水は全域で17流。渋谷・代官山・中目黒周辺には10余の分水口が設けられ、田畑へ引水していた。
一説によると、ほぼ同条件の農地において用水を使用すると、不使用時(水不足で取水困難な時)に比べ、5〜10割の収穫増であったというから、その恩恵は実に多大なものであったろう。
ここでは水車も多用された。最盛期と見られる明治40年には、全域で49か所を数え、その大半が目黒・渋谷両区に集中していたという。これは、用水が高所を流れ、目黒川・渋谷川の水面まで25メートル近い落差をもち、余水は両河川へ落とせるといった立地を利用したものである。水車は農作業から派生し、後にこれを生業とする者によって運営され、精米・精麦をはじめ、製薬・製粉・煙草刻みなど、多岐にわたって活用された。

東大教養学部わき(駒場)。コンクリートの水路が残る
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西郷隆盛の弟、従道邸跡の西郷山公園。用水は道に
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駒沢通りの懸け樋。約40bの鉄製であったが、今は見られない。昭和54年・代官山
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工業利用
三田用水は当初、農業を中心に利用されたが、後に流域に宅地化の波が押し寄せ、農地が減るに従い、工業利用の比率が増加していった。
中目黒の防衛庁技術研究本部第一研究所では、その前身の幕府砲薬製造所・陸軍東京砲兵工廠目黒火薬製造所時代を通じ、110余年にわたってこの水を利用していた。古くは水車を用いて、火薬製造の動力源として、後には船体実験用として使われたという。
また、日本中で愛飲されている「サッポロビール」も、三田用水によって育てられたものといえよう。ビールの製造には、製品1本につき20本分の水を必要とすることから、日本麦酒醸造会社は、三田用水を通じて大量の良質の水を得られる目黒の三田に、明治20年、工場を構えた。「恵比寿」は、古くからの地名ではなく、『恵比寿ビール』という商品名が駅名に、後に町名となったわけで、もし用水がなければこの駅名、町名は異ったものになったに違いない。
他にも、用水は目黒区青葉台の西郷従道邸、目黒の島原藩主・松平主殿守下屋敷(現都立教育研究所)など、沿岸に数多くあった大名・旗本・政財界人の邸内池にも引水されていた。
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防衛庁一研わき。茶屋坂隧道。橋上を用水が流れていた(中目黒)
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「恵比寿停車場」と恵比寿ビールの工場
日本麦酒醸造鰍ヘ明治22年(1889)に東京府荏原郡目黒村三田(現目黒区三田)にビール醸造所を建て、製造をはじめた.。 HP「エビスビール記念館」から
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流路と痕跡
流路については、左上の地図を参照されたい。もはや遺跡と化してしまった三田用水を見られるのは、次にあげる6か所のみである。
取水口(水門)
東大教養学部わき(コンクリート水路)
代官山(駒沢通りの懸樋の跡)
防衛庁一研わき(茶屋坂にかかる橋)
目黒駅(懸樋の末端)
白金台・芝白金台団地わき(水路跡)
★三田用水普通水利組合編『江戸の上水と三田用水』を参考にいたしました。

目蒲線目黒駅東、用水の跡が残る。かつては山手線を直角に渡っていた
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用水溝の内部。昭和54年、港区白金台
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用水終点の芝・西応寺。墓地内に名残の数条の溝が…
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