TOPに戻る

NO.21 へ

校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集:岩田忠利

MAP:中目黒駅地区

    
          
明治村に移築された西郷従道邸(重要文化財)


  昭和38年3月まで青葉台2丁目にあった西郷従道邸

 侯爵・西郷従道邸は昭和383月まで代官山のヒルサイドテラスの前を走る旧山手通りに面した青葉台2丁目にありました。が、重要文化財の指定をうけ翌39年7月10日岐阜県にある財団法人明治村に移築されました。
 西郷従道は西郷隆盛の実弟で各省大臣を歴任しました。かつては、2万平方メートル余の広い敷地に美しい回遊式の庭園が築かれ、この写真の建物のほか、和風の母屋、その他付属施設が配置されていました。創建は明治10年代、来日フランス人レスカスの設計です。

 提供:西郷従道邸保存協力会





   明治天皇が天覧相撲をご覧になられたベランダ

 明治天皇は明治22年5月24日、この西洋館の大ベランダから前庭で行なわれた天覧相撲をご覧になられました。皇后と皇太后は翌25日、当時西郷従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心にご覧になられました。
 参照:真興社所蔵「明治村建造物移築工事報告書」


★移築後の跡地は、現在「西郷山公園」となっています。旧山手通りに面した小高い丘の部分が芝生のある広場、南面の斜面には20メートルの滝もあります。晴れた日には富士山を眺められ、周囲の眺望も魅力です。
 当サイトの「さくら-World」(都内その2)に掲載した私が撮った桜をご笑覧ください。岩田忠利




 
土地っ子 昔話「大正〜昭和初期の中目黒   話す人:小野寺桂吾さん 取材:昭和60年8月

小野寺桂吾さん

 大正7年5月、芝区(現港区)南佐久間町に生まれ。5歳のとき現住所の上目黒1丁目に移り、中目黒小〜芝中〜東京歯科大へ。現在、小野寺歯科医院院長


大震災でも焼失・倒壊家屋が無かった中目黒

 親父は芝・田村町で診療所をやっていました。私が5歳、弟が3歳と1歳、3人の子がいて家が手狭になったので大正12年春、ここ中目黒に小さな家を建て、引っ越してきました。
 この年の9月1日お昼ごろ、突然、関東大震災が……。私の家の壁は殆ど落ちるし、2階のドアーが開いたり閉ったり。外で遊んでいた私は立っていられませんでした。焼けた家、潰れた家は無かったように記憶しています。
 この辺一帯が竹ヤブだったせいでしょうか。そのとき芝にいた親父と書生は、命からがらご飯のお鉢を抱えて芝公園へ逃げたのだそうです。それから中目黒まで来るのにタイヘン。お鉢のご飯を握り飯にして食べながら、3日目でやっと中目黒まで歩いて帰って来たんですよ。


  水車、染物屋、船着場、大水

 小学生の頃の目黒川は、ヘビがのたくるように蛇行してたんです。川幅は今よりちょっと小きく、川端には柳の木、その下にセリやヨモギ、いろんな植物が。春は摘み草、夏は水遊び、秋はトンボ取り、子供の格好の遊び場でした。
 この辺には水車小屋が何か所かありました。私の家の前の小杉米屋さんの水車が昭和の初めまで。大橋の近くに1か所、それから朝倉さんの水車、さらに三田用水を利用した別所坂のところに1か所……。
 宿山橋の近くに染物屋さんがあって、いつも染物を目黒川でさらしていましたよ。川の改修工事が終わってからもやっていましたね。
 船着場は田楽(でんがく)橋とサイカチ橋の間にありましたね。満州事変が始まった頃、この辺にはお父ちゃんお母ちゃんで小規模にやっている下請工場がいっぱい増えましてね、この材料を運ぶのに便利なようにと船着場ができたんです。ところが、海水が上ってこないことや車の発達などであまり利用されず、人糞やゴミの運搬に使われた程度でした。
 
 一番印象深いことは、殆ど1年2回、春と秋になると大水が出ることでしたね。で、建て替え前の私の家は、部屋の中に浸水時のスジがついてましたよ。それから新築の家は床下を人間が腰を曲げて歩けるくらい土台を高くしたんです。
 今度は、洪水があると、床下の水がなかなか引かずプールみたいに溜まっちゃう。目黒区の中でもこの辺が最も低い所、そのうえ三方が丘陵地、ここにみんな水が集中しちゃうんですね。昔の大水は、フワァーッと緩やかに浸水する。その水が2日間ほど引けない。しかし水が引きはじめるとタイヘン。どんどん水を掻き出さないと、自分の家だけに汚物を置いていかれちゃう。当時はどの家も水洗便所ではなかったですからねえ。大水の後片付けはホントに厄介なものでした。


      牧場がアメリカンスクールに

 いまの千代田生命本社ビルの場所(現目黒区総合庁舎)は、浅海牧場という牧場でした。浅海さんは、八幡様の近くにも牧場を持っていましたね。牛のいる光景はのどかな田園風景でしたが、牛のフンの臭いがくさくてねえ。都市化が進むうちにやっていけなくなったようです。
 その牧場の跡地を築地・明石町にあったアメリカンスクールが買ったんですね。震災に遭ったスクールが昭和2年、ここに引っ越してきました。小学生から高校生くらいまでで、いち時は700人ほどの生徒がいました。
 まだ乗用車なんて珍しい時代に親たちが立派なクルマで送り迎えをしていました。外人と日本人との生活程度の格差は大きかったですねえ。
 とにかく、アイスクリームなんて私たちは、銀座の資生堂へ行かなければ手に入らない時代、かれらはそれを食べていたんですからね。中目黒小学校の下の方にちゃあ〜んとアイスクリーム屋がありましてねえ。この店はアメリカ人相手の商売、日本人には売らなかったんですよ。アメリカンスクールの外人の子供たちと中目黒小学校の生徒たちがよくケンカしていましたよ。これを校長が心配しましてね、よく合同運動会をやっては仲良くさせようとしていましたねえ。



イラスト:石野英夫(元住吉)


加賀の殿様と西郷従道さん、初の「何々銀座」

 中目黒駅前の線路に沿った祐天寺寄りに大六天″という神様を祭った山がありました。その山を平らにした一画に30軒ほどの飲食店が集まって繁盛していたのです。ウィスキー1杯10銭で飲める“10銭スタンド”というのが、安くて人気がありましたねえ。若い頃、私もよく通いましたよ。それが戦後、店にいかがわしい女の子を置いたりしたために評判を落としちゃったんですね。
 「何々銀座」という商店街は全国にたくさんありますけど、目黒銀座商店街が銀座と名づけた最初なんですよ。
 それがいま、自由が丘や渋谷に押されちゃってその勢いがないですね。高い権利金を払ってまで商売をやる新しい店が少ない。だから街が発展しないのですね。
 昔、この辺の家の氏神様は大橋にある氷川神社でした。お祭りには、あそこまで神輿をかついだもの。そのとき、加賀百万石の殿様・前田さんの家と薩摩藩の西郷隆盛の弟・従道さんの家に神輿をかついで寄付をもらいに行くんです。すると、加賀百万石の前田さんはシプチンで雀の涙ほど。反対に西郷さんという人は、気のいい太っ腹の人でパカスカ、寄付をくれちゃうんですね。

                   



昭和2年、田楽橋の近くにあった船着場

撮影:阿部元作さん/提供:喜風堂(目黒銀座通り)












   目黒川・宿山橋の近くで染物をさらす人


 上記の昔話に登場の染物屋さん。目黒川が清流であっ
た証拠です。
 資料:目黒区発行「あの日この顔」


 昭和7年目黒村役場、目黒町役場、最初の目黒区役所があった場所

 駒沢通りに面して右手に正覚寺山門のいらかが見えます。その左手が目黒区役所。

 資料:目黒区発行「あの日この顔」


写真左の現在(2013.5.16)

目黒信用金庫の看板の後方が正覚寺山門
撮影:石川佐智子さん(日吉)





      昭和7年10月、目黒区発足記念パレードの山手通り

 右手、山手通りの先に東横線のガードが見えます。写真左の木の脇あたりが目黒銀座通りの入り口です。

 提供:小林朝次郎さん(上目黒2丁目)


   写真左の現在(2013.5.17)

 山手通りの道幅は駒沢通りが立体交差になり8車線、写真左より約8倍、広がりました。
 撮影:岩田忠利














昭和10年、中目黒小学校の隣にある八幡神社

提供:秋元竹次郎さん(上目黒2丁目)


    昭和12年、新調の神輿で八幡神社のお祭り

 この神輿は新調したての総白木造りで、とても重く、その重量と製作費は都内屈指のお神輿だそうです。
 提供:秋元竹次郎さん(上目黒2丁目)





         
              
目黒区内最大規模を誇った中目黒小学校


      昭和11年の校舎

 昭和10年に児童数1846人、同15年に2297人、目黒区内最大の児童数でした。

  提供:秋元竹次郎さん・尾崎次郎さん(上目黒2丁目)


昭和31年の中目黒小

校門前の名物“両上り階段”、取り壊し前です。
提供:尾崎次郎さん(上目黒2丁目)



現在(2013.5.16)の中目黒小

撮影:石川佐智子さん(日吉)



画像をクリックすると、拡大されます。拡大後は左上の戻るボタンをクリックしてください

NO.20
明治期〜昭和初期、写真で見る中目黒