校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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NO.14
昭和元年〜13年、学芸大地区の情景
               昭和初期の学芸大学地区


昭和元年(1926)二子道といわれた現目黒通り

現在の碑文谷警察署の前あたり、荷馬車が見えます。

目黒区発行「あの日この顔」から


        写真左の現在の目黒通り

後方の陸橋は環七の柿の木坂陸橋、左手が碑文谷警察署。

  2013.5.7撮影:石川佐智子さん(日吉)







     昭和4年、碑文谷池に弁天様(厳島神社)造営中

 写真左の本殿は町内の寄付金で、鳥居は菅田新助さんの叔父・菅田重四郎さん(写真中央で杖を持つ人)の寄進、水鉢は菅田重多郎と安東組社長が寄進し、弁天様(厳島神社)の建設が着々と進んでいます。
 当時の弁天様は、現在のように離れ島ではないことがわかります。
 提供:菅田新助さん(碑文谷5丁目)


現在の弁天様

2013.5.4撮影:石川佐智子さん(日吉)








昭和5年の子供たち、豊かな表情にご注目!

 前年から世界恐慌が始まり、昭和5年のわが国は米価と生糸が空前の暴落で農業恐慌が深刻化しました。それでも碑文谷池付近の坊主頭の子供たちの表情は明るい。その服装も学生服やセーターの子もいて、明治や大正期とは変わってきました。

  提供:川口道太さん(目黒本町4丁目)







  昭和9年、上落合から移転してきた向野元生家

 鷹番2丁目の敷地130坪に建物面積60坪の建売で7000円だったそうです。当時の東口の駅前通りは未舗装で、雨の日は泥んこ道になり、駅前の恭文堂書店で長靴をはき替えて電車に乗ったという。
 提供:向野元生さん(鷹番2丁目)


         昭和十年代の碑文谷駅

 東横線開通当時の所在地が「荏原郡碑衾村大字碑文谷字鷹番」だったことから大字名の“碑文谷”が駅名になりました。字名の“鷹番”は現在の駅所在地名です。
 「碑文谷」の地名の由来は、碑文に刻んだ石が鎌倉街道筋にあり、それは碑文谷八幡に現存していることから。「鷹番」は、江戸幕府が鷹狩り場としていた“目黒鷹場”が現在の目黒本町一帯にあり、その鷹番屋敷が置かれていたことに由来します。
 提供:学芸大学附属高校(世田谷区下馬4丁目)



写真左の現在の駅舎「学芸大学駅」東口

2013.5.4撮影:石川佐智子さん(日吉)







   昭和11年、移転してきた「東京府青山師範学校」全景と周囲

 写真上部が世田谷区野沢地区、校舎の周囲は世田谷区下馬地区です。
 左上のL字校舎は昭和31年に世田谷区深沢に移転した附属小学校。
 
 駅名「碑文谷」は、青山5丁目からこの学校が移転して来て以来、校名とともに「青山師範」⇒「第一師範」⇒「学芸大学」と駅名を変えてきました。そして今、学芸大学はすでに昭和39年小金井市に移転しここが学芸大学附属高校となって久しい。なのに、駅名だけが「学芸大学」で残っています。隣駅「都立大学」と申し合わせたかのように実体無き“虚偽の駅名”、これが存続していることが私には不可解です。
 提供:東京学芸大学附属世田谷小学校


平成元年当時の“主無きキャンパス”

 提供:東京学芸大学附属高校










    昭和十年代の碑文谷池

 昭和10年頃から池を東京横浜電鉄鰍ェ借り受け、鯉を放して釣り堀と貸しボートを営業していました。
 
 池の近くに住む菅田一男さんの小学1年ころのお話。
 〜〜裏の池はアシが生い茂り、子どもは中に入れなかった。そこへ池の近くに住む大塚元次郎さんが釣りに行き、大きな赤松の根元で竿を垂れていた。と、突然「大蛇が出た!」。これを見て卒倒した大塚さんは家に帰って寝込んでしまった。大蛇は尾っぽの切れたところが茶碗くらいだったという。
この話を聞きつけた新聞記者が大勢取材に押しかけ、翌日の新聞に「碑文谷公園に大蛇出没」というショッキングな見出し。アシが倒れている個所は大蛇が這って通った跡だと報道され、以来長い間、静かな農村の碑衾村はこの話題で持ちきりだった。
提供:塩崎勝可さん(鷹番1丁目)


写真左の碑文谷池。明日は5月5日、鯉が水上を泳いでる!

2013.5.4撮影:石川佐智子さん(日吉)


















   昭和10年12月1日、開園当日の清水池公園

 この公園は、碑文谷公園の約3分の1、約6000平方bの広さです。かつては碑文谷池同様、村の稲作の灌漑用の溜め池として利用されていました。
 提供:川口道太さん(目黒本町4丁目)


写真左の清水池公園、現在(2013.5.4)

2013.5.4撮影:石川佐智子さん(日吉)


 昭和12年、鷹番町会に大日本国防婦人会が発会

 鷹番町会事務所に町会役員、同婦人会役員が集まり、発会式を行ないました。この年、日中戦争(支那事変)が勃発、日本全土が一気に破滅へと突っ走る戦争態勢へ歩みだすのでした。
 提供:中村 茂さん(鷹番1丁目)


平成元年9月、写真左の町会事務所だった鷹番町会館

撮影:岩田忠利





 昭和12年9月、碑文谷八幡の祭りに参加した子供たち。平和通りで

 街並みは手前から国華堂菓子・デンキ・ラジオ店、西森炭店、大脇マージャン店、松本焼き芋店、キミン堂薬局と並んでいますが、昭和18年に空襲による延焼を避けるため建物の立ち退きを迫られ、強制疎開させられました。
 
提供:国華堂デンキ(目黒本町6丁目)


    写真左の平和通り、現在

 写真左の街並みは戦時中の強制疎開で立ち退きになり、すっかり変わった今の街並み。
 2013.5.7撮影:石川佐智子さん(日吉)








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