校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集:岩田忠利

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NO.4 昭和30年〜34年、成長期の自由が丘


               昭和30年夏の駅頭

 駅舎は平屋、屋根はスレートぶき。駅名標示板は「自由ヶ丘」。その右手にスピーカー付きの“街頭テレビ”が設置されていて、その下には夏休み中の子どもたちに混じって大人も立ち見しています。
 手前の車は、トヨタのトヨペット・クラウンの前身、トヨペット・マスター。当時の新車価額は91万円だったとか。昭和32年の米1キロの価額が79円だったのが現在1キロ400円からみると約8倍の物価上昇。当時の車両価額がいかに高額だったか……。
 撮影:石井 力さん(川崎市宮前区鷺沼)


写真左の駅舎は銀行の左入り口辺、現在

2013.4.22撮影:岩田忠利















昭和30年、“鉄筋ビル第1号”の自由が丘デパート

 ここには戦後の引揚者や被災者の露店が並んでいました。
 それを都議の山田三樹さんが中心になって昭和23年に新組織「自由が丘商栄会マーケット」にしました。その後、昭和27年「自由が丘デパート事業協同組合」を設立、翌28年暮れ、鉄筋ビルに建て替えました。」これが当時の自由が丘の「鉄筋ビル第1号」となったわけです。
 撮影:石井 力さん(川崎市宮前区鷺沼)


写真左の現在の自由が丘デパート
2013.4.22撮影:岩田忠利






   昭和29年、以前、右後方に「九品仏前駅」があった旧白山通り

 昭和2年8月に東横線が開通した当時、東横線の駅名は「九品仏前駅」でした。改札口は現在の自由が丘デパートの北口横のガードの所にあり、メインストリートはこの旧白山通り(現すずかけ通り)でした。
 昭和4年12月、大井町線の乗り入れによって両線が交差する現在地に駅舎を移し、駅名を新たに「自由ヶ丘」と改称しました。この駅舎移動で自由が丘の人の流れが大きく変わり、街の重心は現在地の駅前広場となりました。なお、写真左の建物は自由が丘郵便局です。
 撮影:石井 力さん(川崎市宮前区鷺沼)



写真左の現在のすずかけ通り

写真左の自由が丘郵便局と隣の村林金物店を第一勧業銀行が買収し53年6月、写真上のビルを建て、現在はみずほ信託銀行に。
2013.4.22撮影:岩田忠利













      昭和30年、広小路(現つばき通り)の舗装工事

 作家・石川達三はここから1キロ西方に歩いた九品仏に住み、小説「青色革命」にこの通りの奥の料理屋を登場させています。主人公の達吉はかつての教え子だという犬飼武五郎に料亭へ連れて行かれ、そこで出会った女将のお須磨さんに心奪われるのです。この小説は市川崑監督の手で映画化もされています。
 撮影:石井 力さん(川崎市宮前区鷺沼)


写真左の現在のつばき通り

2013.4.22撮影:岩田忠利









昭和30年、駅前広場

提供:安藤金三郎さん(自由が丘1丁目)


昭和34年8月、熊野神社夏祭で太鼓をたたく作家・三島由紀夫

 当時自由が丘駅に近い緑が丘2丁目に住んでいた34歳の三島由紀夫は、著作の合間にひかり街の中にあったボティビル練習場に通い、帰りには自由が丘1丁目の常磐鮨に寿司を食べによく立ち寄ったそうです。
 写真右から2人目は喫茶店の主人・塚田恵一朗さんで、三島とは同じ年に結婚したよしみで交流があったという。
 このとき神輿をかついだ体験をさっそく週刊新潮に「恍惚について」と題し書いています。
 撮影:石井 力さん(川崎市宮前区鷺沼)
 
 写真左から11年後。
   鮮烈な最期、割腹自殺
       作家・三島由紀夫

 


 テレビに上の画像が流れたとき、私は目を疑いました。
 昭和45年11月25日の白昼のこと、あの作家の三島由紀夫がこの姿で市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の建物に侵入し、バルコニーで何やら大声で演説していたのでした。
 その後のニュースで、総監室において割腹自刃したという訃報に呆然とした記憶があります。 作家の身でボディビルのジムに通って自らの体を鍛えながら、その体をみずからの手で切り裂くとは?! 凡人にはその行為はどうしても不可解でした。
 同時にマスコミではいろんな非難を浴びせられていましたが、日本文学界を代表する作家の一人が享年45歳という若さで帰らぬ人になったことを密かに惜しんだものでした。

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