校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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NO.23 昭和34〜42年、高度経済成長期の大倉山
   見慣れた風景も年々変化し、この風景です!


 昭和34年、大倉精神文化研究所(現大倉山記念館)から菊名方面を望む
 
                                           撮影:山本隆夫さん(太尾町)
 
 左端の木の裏が大倉山駅のホーム、左手の菊名から4両編成の電車が来ます。線路に並行して左側に綱島街道。街道に面して大綱小学校の校舎が見えます。電車の右手に連なった鉄筋コンクリート2階建ての建物は富士紡社宅。建物は駅周辺と綱島街道沿いに集まり、それも平屋か2階建てまでの低いものです。



昭和50年、上の風景から16年後、樹木が生長し駅方面が見えず、新横浜方向を望む
                                  
撮影:山本隆夫さん(太尾町)
  田畑は戸建て住宅やコンクリートの高層集合住宅などの建物で埋まりました。右上に新幹線の列車が新横浜駅を出て東京駅に向かっています。

 
  


  昭和35年、樽町の田んぼ、琵琶畑下 撮影:木村茂さん(樽町)

  手前の農家は木村庄作さん宅、左奥の茅葺きが木村耕作さん宅。
その後方は琵琶畑下の一面の田んぼ。正面の白い建物はNTT綱島局。その左手は綱島街道。右上の白い塔は松下通信工業。

 



  写真左の28年後、同方向を見た昭和63年   
               撮影:岩田忠利


 鉄塔の後方の森は日吉の慶應大学キャンパス、森の稜線の上に同大学の白い校舎が見えます。










 





      昭和34年5月、駅東口の太尾町市之坪地区 撮影:畑野昭一さん(太尾町)

 田んぼの埋め立てが始まり、宅地造成が着々と進んでいます。手前の家は、衣類を大量に天日干しをするクリーニング店。その右の家が撮影者・畑野昭一さん宅で、その間を現在高架線の新幹線列車が走っています。


昭和38年1月、太尾町市之坪地区を線路寄りから撮影 撮影:畑野昭一さん(太尾町)

 東海道新幹線の開通を来年に控え、右手丘の中腹に半円形の新幹線のトンネル工事現場が見えます。左右の家並みは、現在の大倉山駅東口、レモンロードです。手前の田んぼは、現在スーパーマルエツあたり。右端の道路は、現在の大倉山郵便局通りです。


昭和37年2月の綱島街道            撮影:畑野昭一さん(太尾町)

  中央左右に綱島街道が走り、街道沿いの左手の田んぼの所が港北区役所。正面3棟の長方形の建物は綱島街道に面していた大綱小学校校舎。手前右下、綱島街道沿いにあった“市之坪池”。左手後方の丘は菊名西口の丘(現篠原北)、中央後方に広がる田んぼの地域が現在の新横浜市街。右手遠望の丘陵地は新羽。
 なお、市之坪池の跡地は市之坪町会の「市之坪会館」と大倉山交番などになっています。

  



        昭和39年2月、環状2号線の陸橋工事 
                         撮影:畑野昭一さん(太尾町)

左手の丘は菊名。中央左右の道は綱島街道。その先は新幹線の高架。その手前の平地を走る東横線の線路。その線路を跨ぐ環状2号線の工事が進んでいます。現場手前の3棟の高層建物は、東芝家族アパートです。









昭和41年、大綱小学校の空撮 
 撮影:畑野昭一さん(太尾町)

 右手の道路が綱島街道。その上の交差点が現在「大倉山」交差点、手前の角が現在川崎信用金庫。
 左上が新幹線。地元の長老の話では「校舎のすぐ横を新幹線が走るようになってから、子供たちが『新幹線だ!』と騒いで落ち着いて勉強できないから昭和42年現在地に引っ越したんだ」そうです。校庭向かい側は、現在港北区役所。

   

  



      昭和42年4月、綱島街道端の「ちの池」

 「ちの池」は、大曽根の谷間の湧水を集めた溜め池でした。この池は大曽根と樽町の水田灌漑用であっただけでなく、桜の花見や魚釣りで人々の心を潤してくれる憩いの場所でした。
 提供:小林義昭さん(大曽根)


   写真左の同じ場所、平成12年(2000)

 池の跡地は大曽根第2公園と住宅地に。
 撮影:岩田忠利








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