昭和9年、米山富蔵さんが写真店開店

 場所は新羽・杉山神社参道入り口。右手が撮影スタジオ。その屋根の一部は明かり取りの天窓付き。
 旧新田村地区3町内で見つかる昔の写真を見ると、分厚い台紙に「米山写真店」の名前が貼られ、写真の保存状態がいずれも良好です。
 当時の新田村地区は純農村。どの家でも農作業と日々の暮らしに追われ、写真どころではなかったことでしょう。ましてや東横線や横浜線からも離れ、町場から写真屋を呼ぶことも困難だったと思います。 
 そんな写真とは縁のない新田村で米山富蔵さんは写真店を開業、大正末期から昭和二十年代まで村内の出来事や行事、風景や人物などの写真を撮り続けていました。お蔭で当時の写真の大半が米山さん撮影の
ものであることが分かりました。ここに感謝の意味を込め、トップに登場していただきました。
  提供:米山裕司さん(新羽町)

 
 


   昭和元年、伊勢参宮記念の大芝居上演

 交通機関が発達していない当時、お伊勢参りは生涯一度の大旅行でした。各家の跡継ぎだけで“伊勢講”を結成し、月々10銭、20銭を長年積み立て、旅費をつくり、親兄弟と水杯を交わし、村の長老に引率され旅立つのです。それは伊勢参宮を中心に1カ月に及ぶ関西周遊旅行。
 写真は、一行が無事帰ってから参詣者全員で集落の長老宅に屋外仮設舞台をつくり、歌舞伎芝居を上演して村人に謝意を表しました。場所は現新羽町中之久保。
  提供:小山建次さん(新羽町)







昭和初期、若雷神社が「県下名称史跡45佳選当選」記念碑

 当時、横浜貿易新報社(現神奈川新聞)が神奈川県下の名称史跡地、45カ所を読者の投票で選びました。これに若雷神社がめでたく当選、同新聞社から記念碑が贈呈され、その建立記念の写真です。後方旗のうしろに若雷神社の鳥居が見えます。この記念碑は、現在鳥居の所に移されました。
 提供:本多トシ子さん(新吉田町)



 昭和5年、新田尋常高等小学校高等科の農場

 現新田地区センターと常真寺との間に高等科の生徒が野菜を栽培する農場がありました。女生徒は全員和服、髪型が束髪であるのが印象的です。
 提供:金子不二さん(新羽町)





  

 天皇陛下が新嘗祭
(にいなめさい)に召し上がる献上米


       昭和5年6月、献上米の田植え

 
写真は、白装束姿で田植えをする2人を県や村の役人、村長や神官が見守る情景。
 神奈川県は毎年篤農家2軒を選び、米と粟を献上する制度があり、この年は都筑郡新田村の加藤昌之助家(加藤清明さん祖父)の収穫米が選ばれました。この栄誉は郡として村としても初めての快挙でした。、
 
提供:加藤清明さん新吉田町)





    昭和5年11月、献上米を手に村役場で

 献上米は、天皇陛下が新嘗祭に召し上がるお米で、約1升の玄米です。加藤さんの家では一粒一粒、念には念を入れて吟味し、選んだそうです。長男・昌之さん(私がその話を聞いた時は89歳)からうかがいました。
 
写真は献上米を手に加藤昌之助さん、後列右から3人目が長男・昌之さん。
 提供:加藤清明さん(新吉田町)
  



 昭和6年新田尋常高等小学校高等科男子1年

 洋服姿は先生だけ。全員が着物姿、それも大半が紺カスリの着物を着ています。後列左から2番目が高田の中村幸義さん(元横浜市議)、同6番目が最も背が高かった高田の青木勝雄さん 
 提供:中村ハツ子さん(高田西)








 昭和8年の新田尋常高等小学校校舎と新田村

 「新田村」は、明治22年(1889)高田・吉田・新羽の3集落が合併しその村名は昭和14年まで続きました。尋常小学校は高田と吉田にありましたが、高等科に進学する児童はこちらに通いました。
 左の本校舎は昭和4年に改築、スロープ式階段があり、都筑郡内では最も斬新な校舎だといわれていました。右校舎は新羽町の“小山大工”施工の旧校舎で、雨天体操場兼講堂として使われました。
 
 ちなみに大正9年(1920)の新田村の世帯数は561戸、人口3537人でした。92年後の昨年(2012.)の12月31日現在の人口統計で調べると、旧新田村地域の世帯数合計は、2万6111世帯で46.5倍に、そして人口は5万7784人で16.3倍に増加となっています。
 
提供:小澤イサさん(新羽町)


  昭和8年、新羽南部園芸組合イチゴの出荷

 右端のイケメン青年は、新田村村長・小山貞一さんの若いころ。その前は都筑郡役所の松澤さん、写真中央で手ぬぐいをかぶった女性がこの写真提供者・小山三郎さんの曾祖母・ナヲさん 
  提供:小山三郎さん(新羽町)
 1500坪の土地代金で買ったトラック

 写真左の昭和8年(1933)以前、新田村の農家は野菜はリヤカーや荷車に積んで鶴見や神奈川の青果市場まで持ち込んだものでした。とくに新羽・南部地区はイチゴ栽培に熱心で、早朝にイチゴを摘み、箱に詰め、天秤棒でかついで、傷みが早いイチゴはできるだけ早く、現在の神奈川区の二ツ谷公設市場まで持って行っていかなければなりませんでした。
 この写真の前年、昭和7年のことです。北新羽の西山藤次郎さんの父、福次郎さんは村人のそうした労力と時間を省力化し余力を他の農作業に振り向ける方法はないかと考えました。そこで、福次郎さんは一大決心しアメリカ車のシボレーのトラックを買うことに……。そして写真左の「西山運輸」と書かれた、このトラック1台を購入しましたが、その代金は、土地5反歩(1500坪、4950平方メートル)を売って支払いました。お蔭で写真のようにイチゴの共同出荷が実現しましたが、それにしても当時の車は高価なものでした。
 さらに昭和12年、“高田市場”が近場の現高田町の高田交差点裏にできました。市場が近くなった新田村の農家は大喜び。以来、新田村の農業は大きく変わるのです。従来の米・麦中心の農業から現金収入の野菜や果物へと……。
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新羽町・新吉田・高田の地図

校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

NO.16  昭和初期の新田村(新羽町・新吉田・高田)

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