昭和初期の駒林尋常小学校(現日吉台小)


 昭和8年、駒林尋常小学校(現日吉台小学校)

 矢上、駒林、駒ヶ橋(下田)、箕輪の4集落の児童が通学、1学年約50人で全校児童は約300人。先生は校長以下6人 でした
 
提供:松井武夫さん(日吉4丁目)


 
 


    昭和2年、駒林尋常小学校4年生

 前列中央の右が4代目校長・川田融先生(NO.4〜5に登場の川田需さんの父上で、カワダ写真館の川田英明さんの祖父)。左側の先生は日吉4丁目の保福寺住職・伊藤さん
 提供:松井武夫さん(日吉4丁目)





           昭和17年の谷戸池


昭和17年谷間の清水が源泉、谷戸池

 広さ1000平方メートルの池の水は農作業に利用され、ウナギ・コイ・エビ・ザリガニなどの棲み家。ホタルが飛び交う様と食用蛙の鳴き声は夏の風物詩だった
 提供:三浦カヅ子さん(日吉本町4丁目)


写真左の谷戸池の跡地、平成17年時

撮影:岩田忠利





 神奈川県が生んだ唯一の横綱、武蔵山は、日吉っ子
 


   第33代横綱・武蔵山は日吉の土地っ子

 
本名は横山武。赤門坂下で父が農業と米店を営み、そこの長男として生まれ、少年時代からその怪力ぶりは有名。積荷が重くてどうしても急坂の赤門坂を登れない子牛、武少年は荷車を子牛からはずして自分で引っ張り上げたという逸話があります。
 
写真は昭和10年、26歳で横綱に昇進した頃の武蔵山。左は太刀持ち、笠置山
 撮影:横山武夫人(日吉本町1丁目)



 


      金蔵寺の「武蔵山遺愛の松」

 横綱・武蔵山が四国巡業のとき買い求めた五葉松の苗木、少年時代お世話になった隣の家、金蔵寺・内田住職への手土産としたものです
 撮影:岩田忠利


   

          桜の名所だった矢上川


    昭和24年、矢上川でお花見

 矢上川の両岸に桜並木があり、春は桜の名所で花見客で賑わった。女の子もお花見です

 
撮影:佐相政雄さん(日吉本町1丁目)





    写真左の同じ場所、現在地

 土手も桜もなくなりましたが、橋の名前だけは「なかよし橋」。この橋が川崎市と横浜市との市境で「中原区と日吉」から「中吉橋」がその名の由来。
 
撮影:岩田忠利

 水路の時代、日吉の荷物は船着場のここまで


昭和35年矢上川の船着場だった地名「袋河岸」

 今も船着場だったことが地名で残る日吉6丁目の「袋河岸」の家並み。昔の輸送は今のように陸路ではなく水路を利用し、木材・石材・穀類・野菜など重量や容積のある日吉地区の荷物は矢上川の水路を使ってここで積み下ろしをしました
  提供:安斉俊夫さん(日吉6丁目)


       写真左の平成17年当時

 日吉6丁目の矢上川岸あたりを地元では「矢上の袋河岸」と呼んでいます。左後方の丘は慶應キャンパス

 撮影:岩田忠利



  矢上橋を挟んで両側が日吉村。左手の建物が村役場


   昭和9年9月竣工の矢上橋と観音松

 矢上橋が完成し日吉村の村会議員が橋の上で記念写真。左手の建物は地理的に村の中心にあった当時の日吉村役場。後方丘の上にそびえるのが観音松。
 この松の木は戦後まで現在の矢上小学校の裏に立っていました。川崎駅や溝ノ口駅からも眺められるほどの高木で、日吉の所在を示す“道しるべ”となっていました。しかし周囲の土を道路工事用に削り取ったために枯れてしまいました

 提供:松井武夫さん(日吉4丁目)


    写真左の同じ場所の現在(2013.2.7)

 現在の橋は昭和54年3月に架け替えました。右手後方、観音松があった辺りに矢上小学校校舎が見えます。
 撮影:岩田忠利








                     矢上の古老、松井武夫さんの昔話
             観音松の不思議な話



 村人自慢の樹齢700年の松
 
 観音松は、すぐ近くに観音寺というお寺があったので、みんながいつしか「観音松」と呼ぶようになりました。樹齢700年のその松の木は、それは、それは太くて高いものでしたよ。村人のだれもがそびえ立つその雄姿を自慢していましたねえ。でも、ひとたび枯れてしまったら、村人は近寄ることも触ることもしなくなってしまったのです。それはなぜかといえば、「バチでも当たったらいけない」と恐れて……。
 
  切り倒した松の木のウロの中に大きなウナギが……

 昭和24年のこと、ついに立ち枯れてしまった観音松を切り倒すことになりました。頼まれたのは、慶応義塾が日吉に移転する前までは「日吉村」だった北加瀬、今は川崎市幸区北加瀬ですが、そこの若い男3人……。そして、3
 が数日がかりで、やっと切り倒したんです。

 松は二股に分かれ、そこが大きなウロになっていて、中には水が溜まっていました。よく見ると、水中で何やら“動くもの”が……。木こりの一人が恐々(こわごわ)手を入れてみると、いやはや、大〜きなウナギがニョロニョロ!
 陸の上に生えてる松の木にウナギが棲んでいたなんて、とても信じられない話ですよね〜。でも、これ、本当の話なんですよ。これは、だれかが川で捕ったウナギをこのウロに投げ込んで飼っていたのかも……。それとも、このウナギは観音様の化身だったのかも……。

 あの若い木こり3人、その後次々病死

 さらに無気味なことが起きました。あの北加瀬の木こり、若い男3人がそろいもそろって、数年の間に病気で次々死んでしまったのですよ〜。
 
 それにしても不思議なことがこの世には起きるもんですね〜。でも、これはたまたま3人が偶然の運命だったのかも……。いや、観音松を切り倒した天罰なのか。はたまた、あのウナギの怨念だったのか……。
 
 あの木こり3人を私は昔からよく知っていますが、まだ健在なら私よりもず〜っと若い年代ですよ〜。

 ここに南関東で最古の「観音松古墳」があった

 ウナギの話から11年前、昭和13年のことです。
 慶應大学三田史学会が観音松が生えている所を発掘調査したんです。この場所は矢上川の川岸にあり、昔から矢上川は蛇行が激しい川で有名でしたが、水害防止のために河川改修して水が真っ直ぐ流れるようにしたんです。でも、ここだけは今も90度に急カーブして南下する特別な場所です。大学では、おそらくこうした特徴ある場所だから、先人が住んでいたのだろう、と予測したんでしょうねえ。
 
 案の定、4世紀から5世紀初期の“前方後円墳”、長さ90メートルが発見されたのです。また、そこから鏡、銅や矢じり、碧玉製紡錘車や玉類、直刀やガラス玉など、ゾクゾク出てきました〜。発掘現場がわが家の近く、私は何度も見に行きましたよ。
 結局、出土品から南関東地域で一番古い古墳であることが分かり、「観音松古墳」と名づけられました。
 この古墳跡はいま、矢上の子どもが通う矢上小学校となっています。
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校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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NO.7  日吉本町、日吉町の点描