わが国初の工業用水を送った鹿島田堰


大正15年、二ヶ領用水の鹿島田堰竣工記念

提供:徳植 昇さん(木月)









写真左の平間浄水場の近くにある、わが国最初の工業用水として使われた鹿島田堰の現在。右上を走るのは南武線
           2013.3.21
撮影:石川佐智子さん(日吉)

 後方の木立の所が工業用水の取水口。そこに川崎市が建てた標示板に以下の説明文が記されています。

 「鳥居の所で(二ケ領)用水は町田堀と大師堀に分水。昭和14年わが国最初の公営の工業用水として1日に2万7千トンの取水が行われ、49年まで平間浄水場から臨海部の工場地帯へ供給された」



 昭和2年鹿島田の福岡権次郎家の蔵の工事

 同家が鹿島田の新鶴見操車場の建設予定地にあたり、蔵を移動する曳き屋工事。
 提供:石井正治さん(南加瀬)

日吉村が横浜・川崎に2分割合併

 大正15年2月に東横電鉄の一部、神奈川線が開通し日吉村を電車が走るようになりました。そして昭和3年、私学の雄・慶応義塾大学の予科が日吉駅東口に移転を決定。昭和7年に東横電鉄が全線開通すると、日吉村の合併問題が急に脚光を浴びるように。
 東横電鉄が同大学への給水を横浜市に申し込んだことで、横浜市は日吉村合併に意欲を示し、正式に合併を申し込む。これに反発した川崎市も日吉村に合併交渉を行う。
 平穏だった村がにわかに騒然と…。村の話し合いは紛糾を極め、県知事が乗り出す騒ぎ。一時は村議会がもめ、公務執行妨害罪が適用されるという大騒動になりました。
 
 ついに県知事が調停に乗り出し、昭和12年3月、東西分割案の矢上川の東側,、南加瀬・北加瀬・鹿島田・小倉の4集落が川崎市合併、西側の矢上(日吉町)・駒林(日吉本町)・箕輪・駒ケ橋(下田)の4集落が横浜市合併で決着したのでした。

 日吉村は約4年間、合併問題で揺れ続けた末、村名「日吉村」は昭和12年、消え去りました。


        昭和20年、鹿島田の新鶴見操車場。左後方の丘は夢見ケ崎
                              提供:笠松治良さん(神奈川区白楽)

       国鉄の貨物輸送の要だった鹿島田
                            
                                    文・笠松治良

 父親の仕事の関係で悪ガキ時代を鹿島田で過ごしました。鹿島田駅から家までの間、あちこちに沼があり、駅前の沼のほとりに錦圃園(字に誤りがあるかも)という川魚料理店がありました。家とは南武線を挟んで反対側を少し行くと国鉄の新鶴見操車場でした。
 当時は知る由もありませんが、ここは京浜地区を発着するすべての貨車が、行き先と列車別に仕分け、再編成される、今で言うハブで、京阪神の吹田操車場と並んで国鉄の貨物輸送の要だったそうです。
 貨物列車の機関車はS Lが主流でしたから、大きな機関車があり、見慣れない機関車がターンテーブルで向きを変えたりするのを見ていると時間が経つのも忘れてしまいます。このほかにも列車の編成作業もよく見たものです。坂阜(はんぷ)といって、操車場の一角が緩やかな起伏になっていて、その登り坂を何十両もの貨車を機関車が押し上げて行き、最前部の貨車が頂上に達したときには操車係の旗の振り方に応じて、機関車がガツンと突き放すのです。専門用語で突放(とっぽう)といいます。
 機関車の鳴らす汽笛にも一定の決まりがあるらしく、発進、後退、ときには「分かったよ」とでも言っているような鳴らし方もありました。夜になると、林立した高い鉄塔に照明がつき、今日のナイターの野球場以上にこうこうと照らしていました。



昭和35年操車場の鹿島田地区内を走るSL

提供:山田勇さん(田尻町)



     写真上の現在、新鶴見操車場の跡地

 右手の高層ビルは鹿島田駅前。跡地は道路、公的施設、大企業の建物が次々でき、景観がガラッと変わりました。
 撮影:岩田忠利

     小倉と南加瀬の水田を潤した小倉用水


昭和35年、現在の南加瀬交番の所にあった水門

 この水門の開閉で写真下の小倉池の水量を調節していました。
 提供:菱沼正文さん(小倉)






  昭和35年小倉と南加瀬の水田に稲を実らせた小倉用水

                           提供:菱沼正文さん(小倉)

 
小倉や南加瀬地区はすぐ近くに鶴見川や矢上川が流れていますが、その水位が低く、水を田んぼに引くことができません。そこで農民は水路を掘り、そこに二ケ領用水からの分水を流し灌漑用水としました。この水路が“小倉用水”です。


            昭和35年の小倉池

 小倉池は現在の小倉小学校の所にありました。その広さは現在の夢見ケアバス停から尻手黒川道路端の南加瀬交番までの約8町6反歩(約800アール)。
 夏は水浴び、ドジョウやウナギの魚とり。子供たちにとってもお気に入りの場所だった小倉池。正面の家は菱沼孝治さん宅

 提供:菱沼正文さん(小倉)


 写真左の池と水門と用水があった南加瀬交番付近現在

 道路は尻手黒川道路。向かいの木立の手前に小倉用水と小倉池の“記念碑”が建っています。用水の跡地は散歩コースの「小倉緑道」にです。
 撮影:岩田忠






          農村から都市への移行期、南加瀬


   昭和43年、先祖代々の米作り、今年が最後

 
田んぼの周囲に住宅が増えて汚れた生活用水が水田に流れ込み、稲作に適さない環境になりました。先祖代々続いてきた米作りも、今年がついに最後の稲刈りです。
 提供:深瀬蓉子さん(南加瀬)


      庭先での籾摺りも今年が最後

 左の籾摺機(もみすりき)で籾殻を取り除いて玄米にします。それを右の米選機の上から入れると屑米が下に落ち、玄米は外に流れ落ちて選別します。

 提供:深瀬蓉子さん(南加瀬)


昭和32年夢見ケア公園から新川崎駅方面を望む

 この景観は激変しています。夢見ケア公園の樹木が繁茂し定点撮影は困難です。

 提供:山田勇さん(田尻町)


 昭和38年、現水野材木店の所で遊ぶ子供たち

 場所は現在のバス停「ひがし前」。後方は加瀬山。
 提供:内田晶子さん(南加瀬)
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校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏 /文・編集:岩田忠利

鹿島田・南加瀬・北加瀬・小倉の地図

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NO.19 旧日吉村(鹿島田・南加瀬・北加瀬・小倉)の情景