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校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏 /文・編集:岩田忠利

NO.13 二人の山本周五郎 / 東横水郷
             二人の山本周五郎。ひとりは質店店主、もう一人は文豪

山本周五郎さん
 新丸子の上丸子八幡町に生まれ育ち、銀座の質店で奉公し暖簾分けで銀座・木挽町の「きね屋質店」店主に。
 
 雅号は洒落斎。生家のある新丸子に別荘をもち、引退後はここを住まいとして悠々自適の生活。昭和22年7月歿、享年72歳。

山本周五郎
本名・清水三十六
 山梨県生まれですが、横浜で人生の後半生を送る。下町を歩き、小説を書く。代表作に『樅の木は残った』『青べか物語』『赤ひげ診療譚』『ながい坂』など。

 昭和18年に直木賞に推されるが辞退するなど反骨の人。英雄を嫌い、庶民に思いやりのある内容が多い。昭和42年歿、享年63歳。


 昭和16年1月10日、上丸子八幡町の洒落斎翁宅で

 店主引退後の毎年正月には質店に勤めていた人たちが集まって店主を慰める会を催しました。
 前列右から3人目が店主・山本周五郎さん。隣が末娘・敬子さん、妻きんさん。敬子さんの後ろ、メガネの人が当時38歳の新進作家・山本周五郎です。
 提供: 山本敬子さん(上丸子八幡町)
 
    少年の進路を変えた恩人

 写真提供者の日枝神社宮司・山本五郎さんは、おもむろに話し始めました。

 「新丸子には正真正銘の“山本周五郎”が住んでいたんですよ。その人は、私の分家から出た人で東京の質屋に奉公し、のち暖簾分けしてもらって銀座・木挽町で質屋を開業したんです。
 主人の山本周五郎は、およそ質屋の旦那という感じではなく、学者肌でドイツ文学書を読みふけり、みずから“洒落斎”なんてペンネームをもち、小説も書く。性格も高潔で世間に迎合しない気骨のある人のようでしたね。二度目の妻は私の祖父の妹に当たる女性でしたが……。
 そこへ、横浜の西前小学校を卒業した少年が丁稚(でっち)として住み込んできて、店主から深い精神的な影響をうけたのです。 そもそもこの少年は小学3年生のとき、担任の先生から『君は小説家になれ』といわれたそうですから天賦の才があったのでしょうねえ。
 で、主人はその才能を見込んで正則英語学校や大原簿記学校の夜学に通わせるなど援助を惜しまなかったようです。少年はこうした愛情に肉親以上の愛を見いだしたのでしょう。

 やがて大正12年の大震災。このとき山本質店が丸焼けになったのを機に、すでに成長した青年は小説家としての第一歩を踏み始めるのです。そして3年後、その青年は恩師・恩人の名前“山本周五郎”を筆名としたのです。これがあの、文豪山本周五郎となったんですからねえ。

 店には十数人の奉公人がいたそうですが、彼のあとを追って親戚の少年も丁稚奉公、のちの写真家・秋山青磁に、そしてもう一人、写真家・森谷文吉なる人物も大成しました。
 山本周五郎という質屋の親父さんは、たいへんな教育者だったんですねえ」
  
 日枝神社の近くに洒落斎翁・山本周五郎さんのただ一人の直系、山本敬子さんがご健在だという。さっそく日枝神社の宮司に上丸子八幡町のお住まいにご案内していただきました。

 「父の口ぐせは、こうでした。『質屋商人は、ほかの職業より時間的な余裕があるはずだ。その時間を勉強にあてろ』。三十六(さとむ)さんは終戦後、父の好意で蔵の中に机を持ち込んでは、半紙に筆で文章を書いていた、とよく聞きました。
 また、父はこんなことも言っていました。『お金を持たせると、すぐ使ってしまう。サトムは、ザルみたいな奴だ』と。
 三十六さんが駆け出しの頃のことです。父が、近所の床屋に行くと、主から『旦那、今月号の何々って雑誌に、旦那の小説が載ってますね』なんていわれたとニコニコしながら帰ったり、お客様に『ほら、うちのサトムの作品がここに載ってるでしょう』と自慢げに見せたり……その姿は子煩悩な父親を目の当たりにするようでありました。
 ともかく、父も三十六さんも、“偉大な変人”であったことは間違いございません」



山本周五郎の小説『日日平安』を黒澤明が脚本にし映画化、大ヒットした時代劇映画


「赤ひげ先生」でお馴染みの小説『赤ひげ診療譚』
     
  
昭和30年の東横水郷(総面積6万坪)  現等々力緑地


 池の端に住む、中原区等々力の菊地金治郎さんは、砂利採取業「菊地組」の社長で昭和6年に東急の砂利採取専属請負人となりました。従業員約200人を使ってここでコンクリート資材として砂利を十数年間、採掘。東横水郷はその砂利採取の跡地です。
 地下湧水と宮内堀の流れ込みで1号池から7号池まである広大な池です。その面積は8万坪。この池に菊地さんは毎年魚を放流し、昭和24年釣り堀を開業、名称を「東横池」としたのです。

 上のイラストマップは池の総面積が昭和23年当時8万坪だったのが6万坪に減った昭和30年当時の図です。
 この図を「とうよこ沿線」編集室で作成した昭和58年現在では8分の1、1万坪(斜線部分)と、さらに縮まっています。
 1号池はふるさとの森、2号池はサッカー場、3号池はプール、4号池と5号池の一部は住宅地、6号池は日本庭園、7号池は陸上競技場にとそれぞれ池の姿を変えています。



昭和31年8月、5号池の釣り人

提供:山田勇さん(田尻町)


写真左の唯一残る5号池ですが、一部住宅地、一部釣り堀となり小さくなった現在(2013.3.17)

 撮影:岩田忠利




昭和30年夏、3号池

ヨシの向こうの森は小杉神社の森。
提供:菊地金治郎さん(等々力)






  写真左の3号池だった池がプールに替わった現在

 プールの建物裏、100bほど後方に小杉神社はありますが、等々力緑地の樹木のほうが大きく育ち、見えません。この立派なプールも近々、壊されて他の施設に替わるそうです。

 撮影:岩田忠利





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