校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 文・編集:岩田忠利

      東急の総帥 五島慶太会長


昭和22年、東急の総帥・五島慶太会長が20年勤続者表彰式で徳植晏僖(やすよし)さんを前にして「笑った」シーン

 右上の花の陰に若い頃の五島昇元社長の姿も。「滅多に笑ったことのない五島慶太会長が笑った」と東急本社のエライ方がとっさにシャッターを切った貴重な写真だそうです。

 東横線の敷設計画段階の当時、五島慶太社長は用地買収のため、よく馬に乗っては徳植さんの元住吉の本家へやって来ました。そこに寄り合う地主たちを相手に泊り込みで折衝しました。
五島会長は当時の苦労が懐かしかったのでしょう。徳植という姓を聞き、居並ぶ勤続表彰者の中から徳植晏僖さんだけに話しかけてきました。

 提供:徳植晏僖さん(木月)

昭和16年渋谷駅助役時代


 当時の東横線の電車は1両120人乗り、2〜3両編成でした。電車のプレートには慶應大学の校章「ペンのマーク」に<渋谷〜日吉>が書いてありました。その頃の元住吉駅の利用客はひと電車に10人ほどでした。
 
 当時の東急は、助役以外の者には信号操作をやらせませんでした。ところが、助役の私にこの年、16年8月に召集令状が……。代役がききませんから、“赤紙”をポケットに入れて「発車オーライ!」をやりました。


助役時代の徳植さん


昭和35年、定年退職前の五反田駅長時代、出札窓口で
 徳植晏僖さんは元住吉・木月の土地っ子で、東横線が全線開通する直前、昭和2年8月に東急に入社しました。
 終戦後、日吉・田園調布・大岡山・五反田など6駅の駅長を務めました。

      作家・山口 瞳
さん


 作家・山口 瞳さん
 
 サントリーという会社は、むかし「寿屋」と呼んでいました。社長が「鳥居さん」という方で、社名変更のときその敬称と苗字を逆さまにして「さんとりい」としました。
 作家・山口瞳は、その寿屋と元住吉や武蔵小杉と、非常に強い糸で結ばれていた人でした。
 
 若い頃の山口さんは出版社の河出書房の編集者でしたが、この会社が倒産し失職していました。そのとき、のち作家となる開高健が寿屋の宣伝部にいて彼を会社に推薦し入社することに。そして雑誌「洋酒天国」の編集やコピーライターとして活躍します。横浜・山手に住んでいたイラストが得意な柳原良平が宣伝部にいて、山口さんが書く文には必ず柳原良平の挿絵が載るというコンビ。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が世に出ました。やがて開高、山口、柳原は「サントリー宣伝部の三羽烏」と呼ばれるほど有名に。
 その後、山口さんは社宅住まいを始めます。木月大町のサントリー社宅で法政二高のすぐ近く。

 休日と帰宅後は執筆活動に精を出し、「婦人画報」に『江分利満氏の優雅な生活』を連載していました。
 昭和38年(1963)に第48回直木賞を受賞、この作品は映画化もされました。
 小説の主人公の満氏は「東西電機の社員で妻と一人息子と元住吉にある社宅に住んでいる。2世帯で1棟のテラス・ハウスである。
 住所ははっきり分かっていないけれど、渋谷から東横線で多摩川を渡って3駅目である。
 この界隈の買物時の賑わいといったらない。ひところの中央沿線、高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪の活況に近づきつつある」
 
 このように小説の舞台は元住吉。当時「優雅な生活」という言葉が流行語になりました。まだお読みなっていない方は、図書館ででも借りて読んでみては……。
 
 「サントリー宣伝部の三羽烏」の上司、課長の今井茂雄さんが木月伊勢町にお住まいで私とは長年の知人であったことから、今井さんの紹介で山口瞳先生の自宅、国立を訪ねることになりました。
 


第48回直木賞受賞でデビュー作品となった『江分利満氏の優雅な生活』


作家・山口瞳がよく花見に来た井田堤

写真は昭和32年4月の井田堤。後方は昭和橋。
提供:橋本禎二さん(井田中ノ町)



      写真上と同じ場所、現在(2013.3.2)

 河川改修で桜の木は一本も無く、景観ががらっと変わりっています。
 撮影:岩田忠利
     
    元住吉懐古

              
                  
作家 山口 瞳
                      
           国立市の自宅で昭和56年6月インタビュー
 
 
 元住吉に住んだのは、昭和36年から39年の2月まででした。
 あの頃の僕は、サントリー本社の宣伝部に勤めていましてね、毎日東横線に乗って通ったもんですよ。それが当時、東京駅まで行って、そこから本社のある茅場町までず〜っと歩いたんです。
 
  木月大町の社宅生活

 当時の元住吉の社宅は、木月大町。隣の木月祇園町には古い社宅がありましたが、木月大町には新しい社宅が次々建っていましたねぇ。カエルの声はうるさいほどでした。そんな田んぼの中にもバラックみたいな飲み屋がありました。ときには飲みに行ったこともありましたよ。
 とくにあの頃の僕は、会社が忙しかったし、小説を書き始めたばかりの頃でしたから、朝早く家を出て、夜中に帰ってくる生活の連続でした。
 それでもたまの休みには、社宅でしたから隣近所の人たちとキャッチボールをしたり、お花見に行ったりして、けっこう楽しかったですねえ〜。
 
  井田堤のサクラと法政二高の優勝パレード

 井田堤のサクラは、見事でした。で、サクラ見物に行くと、あの辺のお百姓さんたちが肥やしをまいたりして、サクラの木の下に入れないようにするんですよ。あの井田堤のサクラ、今はどうですか?
 そう、そう、社宅の近くに法政二高がありましてねぇ、あの学校が甲子園で4連覇という大記録で優勝したんですよ。いま巨人にいる柴田勲選手が中心で、優勝旗を持って元住吉駅からパレードしたのが、強く印象に残っています。僕も野球は大好きですから……。
 もう、僕の知っている人は、元住吉にはきっといないでしょう。あの頃、小学生だった息子が、いまじゃ30歳ですから……。
                            文・岩田忠利
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あの人と元住吉 昭和22年(1947)〜56年(1981)