編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.639 2015.05.15 掲載

 
『とうよこ沿線』No.13…昭和57年(1982)10月1日

 B5判 紙数:76ページ

 頒布:有料 定価200円
   
      参加して…

       
沿線っ子が撮影した創刊号の表紙

         
写真家  川田 英明(日吉


 

日焼けした顔に泥だらけの手足。農村らしい風景の中、畔道を走りまわって魚やエビガニ捕りに忙しい幼い頃の私。一面黄金色に染まった稲穂のジュータン。時折疾風を切って過ぎて行く緑の箱型電車、それがうしろに風の渦を残し、陽光に輝いた稲穂を大きく揺るがす。

 今やその田や畑は住宅と化し、この沿線は様々な社会、文化と発展を遂げてきたのである。一方では自然破壊が進み数々の文化遺産の消滅は人間の身勝手さに眉をひそめる。

 ここに一人の中年の紳士Mが登場。この地で育った、いわば沿線産である。沿線っ子であったひと昔前の郷愁に駆り出されながら「東横沿線を語る会」に参加したのである。
 十数年間の管理社会の務めを辞め、独立したのが2年前。時を同じく本誌が創刊された。幸せにもその表紙の写真を私が撮影できたことは大変な喜びである。それ以来、編集室にのこのこ顔を出す人となった。あのクーペルタンの言葉通り参加することに意義がある≠求めて――。

 この夏のこと。5歳になる娘が姉のキャンプに母親と共に参加した。キュウリやタクワンなどを切って手伝ったと言ってはしゃいでいた。お姉ちゃまの協同生活にささやかであるが参加できたことが大変うれしかったようだ。幼な心の中で彼女は多くの人と接し多くを学んできたに違いない。

 独立と同時に多くの先輩諸氏並び朋友との交流ができたことは私も娘の心境と同じで、参加して良かった≠ニ言う実感でもある。



      

       ひと皮むけば仲間です

              学生  丸田 起弥
(自由が丘)



 人見知りはする、自己主張はできない。おまけに、「こちらとうよこ沿線<fス」とお電話をいただかないと、なかなか編集室へ遊びにも行けなかったのです。

 イラストを書かせていただくようになってはや3号目だというのにこの態度。もう私の事など、忘れられているかも……と心配する私に、
 「よっ!.調子はどう?」
 と、飛び上る程の大声で声をかけてくださるのは、いつもきまって編集長です。驚きながらもとてもホッとしてしまいます。

 こんな私が、はじめて『沿線』の方と会うため、待ち合わせをした時のことです。隣に立っている、ジーンズ姿にヘルメットを手にした青年を、まさか編集室≠フ方とは思わず、黒ぶちメガネにスーツ姿の方をひたすら待っていた、という思い出があります。
 だって、編集室――というと、少し恐いイメージがありませんか? でも『とうよこ沿線』の編集室はかなり違っています。人見知り……などと書いている私がしっかり参加してしまっているのですから(もっとも、ひと皮むけば、他に類のない底抜けひょうきん者なのです)。

 内気な方も、社交的な方も、これを読んで下さっているあなたとも、ひと皮むいたお付き合いができたらいいと思っています。
 参加はもちろん、ご意見、ご希望、ファンレター? など、なんでも、心からお待ちしています。



        参加、それは生きている歴史

フリー・エディター  原園 謙一(田園都市線市が尾)


 

 九州に健在の母は、確か63歳になるはずだ。戦前、母は日赤病院の看護婦をしていた。ときに母は、自分の娘の頃を懐かしむように、幼い私に聞かせてくれた。話の大筋は忘れてしまったが、一つだけ覚えていることがある。

 当時の日本といえば敗戦色濃く、看護婦は傷ついた軍人の手当てで忙殺され、疲れた足取りで夜半近く帰宅の日々。東横線某駅で下車すると、今は失なわれた田圃や畑、小さな茂みがあり、そこに夜な夜な娘を狙う追い剥ぎが出没したというのだ。けれども母は、陸上競技で鍛えた健脚で逃げ帰ったのだ、と笑いながら話してくれたものである。
 母にも東横線にまつわる自分の人生の歴史の一コマがあり、今も大切に自分の胸に抱きながら、九州の片田舎で生きているのである。

 時は40年近く流れる。ある雨の日の大岡山駅で本誌に初めて出合った。参加する決意を強く感じたのは、母の生きた人生の歴史に触れてみたい、また、単に読み捨てミニコミ誌でない、沿線の歴史、人の歴史を刻む新しいタイプの冊子であると感じたからである。

 この数年某社で月刊誌等の編集に携わってきた私にとって、同じ仕事に取り組む中で、情熱や使命感を持って参加している住民編集者に、学ぶことのなんと多いことか。一人でも多くの人が参加し、自分の人生の一コマを本誌で刻む。すばらしいことだ。一滴の水の輪が水面に広がるように、追い剥ぎならぬ、『とうよこ沿線』の参加者が各地域で出没し、小さな輪を、さらに大きくしたいものだ。


    情報の“送り手”、延べ2333名の声の中から

   編集の音(抜粋)





秋の一日。子供たちが、どんぐりのコマで遊んだり、太い櫟の木にのぼったりしていた。そういえば、昔は櫟の木にのぼって、どんぐりを落として集めたな…。(“櫟号”のデスクキャップの)久保島さん、今度おごっておくれ!
(大倉山・学生・桑原芳哉)




13号.櫟”、ようやく出来ました。利益など追及してたら沿線誌は出来ない。忠孝の教え、道徳の道など現代社会では田圃の蛙でシャーシャー。失礼しました。岩をも通す信念で、さぁ14号目に挑戦!
(編集室・鈴木善子)




新丸子の地図を描きあげたら、おなかがすいて‥…・。インスタントのカレーライスを急いで胃袋に入れてあげました。ちまたではブライダルシーズンですが、私は色気より食い気で勝負します。
(大口・イラストレーター・原田たかこ)





日焼けも冷めて、私もいよいよ23歳。いやになっちゃう、と言う前に、心と体を鍛えて、頑張らなくては…。皆様、子供のしつけ方のアンケートにご協力下さりありがとうございました。
(名古屋・テレビ局勤務・平井 雅)





編集室に出入りを始めてまだ6カ月。なのに、いつも偉そうにしていてゴメン。稲が茶色になる頃は、秋祭りの始まりです。銀杏みたいな茶色のやさしい目をした山男も見にくるのを知っていますか? 
(大倉山・遊び部門担当・翠川秀子)





ほら、聞こえてきませんか?  人と人との輪が大きな音をたてて広がっています。聞こえてくるでしょう! 今、私はこの音をからだ全体で感じとっています。
(日吉・和裁研究所員・加藤悦子)




去年の春、本誌紹介で配布した花木の苗木をお育ての方々、根付きは如何ですか?  私のアメリカ芙蓉は私の背よりも高くなり直径20aほどの真白い花が咲きました。苗木と共に本誌もすばらしく成長してゆきます。
(大倉山・会社員・山室まさ)



読者から編集者にかわってはや4カ月。会話が苦手にもかかわらず、黙っていては仕事にならない。足はガクガク、喉はカラカラ。汗だくでなんとか取材をすることができた。皆様のご協力に多謝!!
(日吉・会社員・板垣ふじ子)





昔懐かしはと号″の「一日はとガール」をやった。サインしたり、写真撮られたり生涯一度の夢のような一時。そんな私たちを見て、お客さんが一言。「彼女たちは今日だけスターなのさ!」
(白楽・学生・中本英美)




親しらずを一本抜歯しました。人の1倍半もある歯だった.とか。ペンチで抜かれたのです。(本当です)発熱、出血もとまらず2日間苦しみました……。これで原稿が遅れてしまった。立派な言い訳になりませんかしら? (緑が丘・主婦・内野瑠美)




最近、いろんなタウン誌が出てきました。しかし、みんな同じような内容ではつまらないのです。やはり内容が充実し、個性あるタウン誌でなくては……。それが『とうよこ沿線』です。
(横浜・会社員・藤田良雄)






初参加の僕です。初めて駅売店の配本を手伝いました。改札をくぐる時には「納品に参りました」と言うのですが、この時はとても気持ち良かった。中学生になったばかりでまだ小学生に見える僕なのに、大人料金で電車に乗るからです。家に帰って手を見たらマメが四つ、つぶれていた。
(奥沢・中学1年・数野慶久)





呼び出しの電話がかかると、やっぱり来てしまう。描けない、描けないと苦しみながらも、しっかりペンは離さない。雑誌が出来上がるまで、また、あの名状しがたい日々が続くのか―――。
(綱島・会社員・葛西きよこ)





『とうよこ沿線』の愛読者、クウェートから投稿された浜田誠一郎さんが久しぶりに日本に帰り、来訪を受けた。想像以上に凄まじい現地のお話を伺った。TVでは、猛烈な気温と湿度が出ないので随分誤解していたことを知った。 
(都立大学・随筆家・前川正男)






あえてコネを使わず、単独飛込訪問のNHKでは、職員の皆さんがいと丁重、親切に応待。聞けば、スレたプロ記者より手垢なしの素人記者を暖かに迎えてくださる方針とか。久々の編集参加でルンルン気分でした。
(武蔵小杉・県広報紙レポーター・石川静恵)




点を結んで線となり、線で囲んで面となる。目蒲線、新玉川線などの電車線や、網の目のようなバス路線を含めれば沿線人口は300万人を下るまい。この3百万の人々を読者にするのが、私の大きな夢。
(武蔵小彬・郷土史家・小林英男)




このところ、何を食べても、何を飲んでもおいしく感じる私です。「〇〇を食する会」「〇〇を楽しく飲む会」等、ぜひお知らせ下さい。でも、これが全部私の血となり肉となったら……絶句!
(横浜・大ピ連候補・石橋富士子)





ピーヒョロロと夕空に輪を描くトンビ、高速超低空飛行のツバメ。どちらも、いつ頃からか見かけなくなった。農薬散布や宅地造成で、自然環境が変わったためか。もっともっと、沿線に緑多き自然を。
(日吉・カメラマン・森 邦夫)





編集室の皆さん、お元気ですか。山梨県へ引っ越して3週間たちました。そちらへ行こうと思うのですが、交通事情が悪く、行けませんでした。山梨にも書く材料が沢山あります。今度は「ぼくの山梨便り」を送ります。のせてください。
(山梨市・中学1年・村田 毅)




『とうよこ沿線』も2周年を過ぎ、一つ大きな山を越したような気分。創刊当時のメンバーも少ないみたい。それだけ私も古顔になったのかな……。古顔の方も集まって、本誌を盛り立てませんか。
(向河原・似顔絵担当・大和功一)





広告面でお手伝いを…と張り切って参加。何軒か歩いてみて第一に感じたことは、人との応対のむずかしさ、態度の重要さ。これからは、相手がたとえセールスマンでも感じよく応待したいものです。
 (綱島・主婦・大多和みよ)





今号より初めて参加させていただきます。文才のない私のこととて、カット、イラストにて、参加したいと思っています。牛ではないのですが、どうもスローモーで困ります。
(綱島・公務員・吉松克巳)





『とうよこ沿線』編集室の七夕パーティーは大成功。私はそのアットホームな雰囲気に酔い、みんなと同じように願いごとを笹に結びつけました。こうしたお祭りを地域の人との交流のため大切にしたいですね。
(日吉・フランス語講師・アルメル・マンジュノ)













地域雑誌づくりは本当に難しい。読者の一部からは「もっと文献的資料となる堅いページが欲しい」。もう一部では「まじめで堅苦しい。もっと柔らかく」。硬軟その塩梅、どこを基準に塩加減をしたらよいのやら、マーケットの狭い地域雑誌はそこがむずかしい。
 編集室の七夕祭の夜、ワインを飲むほどにスタッフ20人の話題はこの編集内容に集中。
 「大人の夜の遊び場、艶っぽいところなんかのルポだったら、ボクは毎晩だって行くんだけど……」と上気嫌の青年。その男性の横顔をまじまじながめていたのは、隣の席の生真面目なフランス人・アルメルさんでした。
 このひと言を私はさっそく頂戴しました。そこで本号から登場したのが柔らかいページ『アルメルさんの艶腺漫遊記』です。硬派の読者のお叱りはどうぞ私あてに。お褒めの節はどうぞ上気嫌の上記・青年へ。念のため、この粋人はアルメル女史のご主人丸山 洋さんでした。
(本会代表・編集長・岩田忠利)

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