編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
編集:岩田忠利         NO.262 2014.10.02  掲載 

  ふるさと 神奈川宿

      文・ 照本 力
(東神奈川熊野神社宮司


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和61年5月1日発行本誌No.33 号名「柳」
   
 


           神奈川宿の思い出


 
神奈川に生まれ育って、はや60年。戦前・戦後の目まぐるしい変遷――戦災、駐留軍接収、区画整理、町名変更、高速道路とビル建設など――。ここが、かつての神奈川宿であったとは想像も及ばぬ変わり様である。

 戦前に居られた人が久しぶりに訪ねてきて「私の居た所はどのあたりですか」と聞かれるが、あまりの変わり様に驚きながら、かつての昔話に花が咲き、時の経つのを忘れてしまう今日この頃である。

 ここで言う「神奈川」とは、神奈川宿のこと。滝の川を境に東が神奈川町、西が青木町であり、それぞれに本陣があり、石井家、鈴木家が務めていた。
 私の子供の頃は未だ宿場の面影が残っていた。家人や親戚の話題の中に、旧家の名が出てくる ―― 武蔵屋、三河屋、新羽屋、寺尾屋、問屋場の小島さん、飴七の矢島さん、油屋の三橋さん、銭屋さん……。

 神奈川町が江戸時代からいかに賑わい、多くの商家が各地より集まって来ていたかが想像できる。安政2年(1855年)の神奈川宿家並図によると家数1477軒、旅籠と茶屋が96軒とある。(新町からり芝生村まで)

 私家の番地も何度も変わった――武蔵国橘樹郡神奈川町、御殿町、東神奈川一丁目と…。

 昭和2年に区制がしかれ、神奈川区となる。当時の神奈川区は現在より広く、今の港北区綱島や日吉、小机方面や西区の平沼、岡野町、浅間町なども含まれていた。

 昭和6年には町界町名整理があり、新町名になっても、まだまだ昔の名が慣用されていた―― 西の町、仲の町、九番町、十番町、猟師町、小伝馬町、荒宿、新宿など――なつかしい名である。



江戸末期、東海道・神奈川宿の東西にありその西側の神奈川台関門   提供:金刀比羅神社(神奈川区台町)



           高札場(こうさつば)の復元


 
今年になってからの話題を拾ってみると、久しぶりの雪であった2月8日、神奈川地区センターが開設となり、その傍に立派な高札場が復元された。本陣・石井家の資料に基づき神奈川大学志水・西研究室に依頼し、横幅5.7b、高さ3.5bとまことに大きなものだ。

 さらに元問屋場の小島家のご好意により、慶応4年
(明治元年 1868)の制札2枚を拝借し、展示したことである。勿論、高札は神奈川区内にも何枚か残っているが、これは実際に滝の橋際に掛けられた実物であり、明治元年の神奈川大火、関東大震災、横浜空襲の3度の災害にもめげず助かったものである。


          『神奈川駅中図絵』と『金川砂子』


 
もう一つの話題は、江戸末期の文政年間(
18181829年)に書かれた『金川砂子(かながわすなご)』と『神奈川駅中図絵』が神奈川地区センターに展示されたことである。
 『金川砂子』は、今日郷土史研究には貴重な資料であるが、
160年前の文政6年(1823年)から8年にかけて、仲の町に住んでいた煙管草喜荘(きせるやきしょう)と言い、別名を「庄次または庄次郎」と呼んだ。神奈川宿(生麦松原から保土ヶ谷入口追分まで)の社寺、旧蹟、町並を絵と文であらわし、詳しく宿内をとらえている絵図である。

 私が『金川砂子』という名を聞きはじめたのは、
50年ほど前で未だ小学生の頃だった。当時、父が健在で石野瑛先生(武相中・武相高校創立者、郷土史家)が、しばしば来家され親交があったようである。

 ちょうど熊野神社(権現様)の御鎮座
850年祭の前年の頃だった。旧家で氏子総代であった矢島義三郎氏(飴七)の土蔵の中から、寛政5年(1793年)の「熊野三社大権現」のボロボロの幟が出てきた。その時に『神奈川駅中図絵』が初めて世に出たのだと思う。父は大変な喜びようで、早速、複本を作らせた。絵は参道の側にいた提灯屋の山中作太郎さんに、文字は私の母が書いたことを覚えている。だが残念ながら、この写本は空襲で焼失してしまった。幸い、矢島家の原本は助かり、今回、展示することができた次第である。

 煙管草喜荘は仲の町に住み、煙管を商いとしていた風流人であったらしい。

 「神奈川駅中図絵
は文政6年に喜荘が最初に記したもので、彩色がほどこされている。翌年に『金川砂子』三橋本(飯田町三橋家蔵)ができ、最後に平田本(銭屋平田家蔵)を完成したようである。石野先生の神奈川史要『金川砂子』に所載のものは、この平田本であり、三橋本は油崖三橋家に現有されて、いずれも貴重な郷土資料である。
 
160年後の今日、自ら書いた図絵が、このように珍重されているとは、よもや煙管亭さんも思いもよらなかったことだろう。

  この山のなくなる迄は はなし種 (煙管草喜荘)

  飯田道 極楽道の一の宿 浄仏願う 人は寺まで(煙管草喜荘)



  『金川砂子』の「田畑之圖」・・煙管草喜荘の絵に現代の路線・町名・建物を記入


 これは、今から160年前の東白楽方面の図。右下あたりが東白楽駅。そこを縦に上麻生道路が走る。絵を見ればわかるように、当時は今の平川町通りがメインの通りであったらしい。

 また左上の「一本松」は「平尾内膳物見の松」と称され、大正年間までその姿を見ることができたそうである。
なお、「一本松」のところは塚になつていて、2、3年前まで残っていたが、現在では住宅になってしまった。
 図名のようにまさに田や畑ばかりで、現在の賑わいとは大変な変わりようである。

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