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写真集「わがまちの昔と今」

第7巻 鶴見区編

昭和30年(1955)10月1日、潮見橋の渡り初め祝賀に集まった傘の花。鶴見中央5丁目から本町通1丁目方面を望む
      (転載 平成14年9月25日付神奈川新聞)

昭和47年(1972)アオヤギの天日干しのかたわら、井上房子さん宅の貝の殻むき
           (「生麦情景」長谷川晧作品集から)

昭和31年(1956)正月、重さ10キロの纏を振って歩く駒岡・小山和雄さん
               (提供 駒岡・小山和雄さん)

昭和3年9月、旧鶴見町・町会議員・井上英仁さんの葬列。通りは良忠寺の向かい側、現矢向3丁目3番あたりで後方の茅葺き屋根は金子米店、一軒おいた手前に現笠原豆腐店、つぎに二階建ての足袋屋。右手に二ケ領用水が流れ、野菜や食器を洗う木製の洗い場が見える
               (提供 矢向・森本祐康さん)
昭和29年(1954)1月28日、雪の日の翌朝、滝川定雄さんが上の宮1丁目の自宅周辺で射止めた獲物、スズメ・山鳩・コジュケイ・山シギなど。野うさぎは昭和四十年代まで自宅周辺にたくさんいたという
 (「自然豊かな里山、上の宮」滝川定雄作品集から)
 

昭和28年(1953)3月30日、皇太子(今上天皇)が第二京浜国道をお通りにな
り、横浜港からエリザベス女王戴冠式に向かう。神奈川区入江町付近で
             (提供 上の宮・滝川定雄さん)

昭和初期、末広町の埋立地に民間の飛行士養成所(第一航空学校)があった。後列左から6人目は池谷俊保さんの父・藤太郎さん
   (鶴見区役所勤務)(提供 岸谷・池谷俊保さん)
昭和28年(1953)夏の鶴見神社祭礼。山車の先頭は金棒を持った手古舞姿や浴衣姿の鶴見三業地の芸者衆。現在地は鶴見銀座、鶴見中央5丁目から京急鶴見駅方面に向かって撮影
            (提供 鶴見中央・金子元重さん)

昭和6年、鶴見〜獅子ヶ谷線が開通。後方は現獅子ヶ谷交差点。森は現獅子ヶ谷市民
の森
            (提供 市場上町・添田有道さん)

上の写真の現在地、獅子ヶ谷バス停付近
 
昭和27年(1952)、第一京浜国道に材木を積んだ荷車を引く馬と週番(芦穂崎小児童)
の交通整理
                    (提供 鶴見小学校)
昭和23年頃、北寺尾に進駐軍の車が現れる! 生まれて初めて身近にする外国人、そのアメリカ人が乗ってきた大きな車……。物珍しさに集まった人々の好奇な眼差しが印象的だ  
 (「自然豊かな里山、上の宮」滝川定雄作品集から)
昭和27年(1952)夏の扇島海水浴場
             (提供 寛政町・酒井邦明さん)

扇島は遠浅の砂浜が広がり、その宣伝うたい文句の「水のきれいな扇島」どおり水晶のように澄んでいた。春は潮干狩り、夏が海水浴で賑わった。
昭和47年(1972)船上でボール遊びに興ずる子供
           (「生麦情景」長谷川晧作品集から)
昭和28年(1953)、江ヶ崎陸橋から望む
         (「矢向の50年」土田泰敏作品集から)
新鶴見操車場上の写真と同じ場所から見た現在
         (「矢向の50年」土田泰敏作品集から)

鉄道の貨物輸送からトラック輸送にその役割を終えた現代、かつての操車場は広大な旧国鉄の緑の遊休地に変わった。パークシティ新川崎などの高層ビルが建つ近くにはJR横須賀線の新川崎駅と南武線の鹿島田駅がある。
昭和27年(1952)、車が通らない昼間の第一京浜国道。現在地は鶴見中央4丁目。道路右側に手前から小原木材、材木組合事務所、日本通運、石井建設工業、鶴見税務署、鶴見警察署が並び、左側に横浜興信銀行、江守自動車があった
                    (提供 鶴見小学校)
幅員が2倍に広がった第一京浜国道、上の写真と同方向の現在
昭和26年(1951)12月、歳末大売出し中の鶴見銀座通り(旧東海道)。天下堂書店前から京浜鶴見駅方面を望む
                    (提供 鶴見小学校)
上の写真の現在。通りの名称も変わって「ベルロードツルミ」
死者161名、重軽傷者119名の大惨事。鶴見事故現場
            (提供 鶴見中央・金子元重さん)

  鶴見事故は昭和38年(1963)11月9日午後9時40分、発生。貨物列車の最後部が脱線、その貨車に下り横須賀線電車が衝突、脱線した。さらにちょうどすれ違い中の上り電車が線路にはみ出た下り電車に衝突した。
  上り線に乗り出して横倒しになった下り電車の中で倒れてもがく乗客が詰った車両。そこに上り電車が突っ込んできた。轟音と悲鳴、電車の屋根や側面が粉みじんに吹っ飛び、人間が車両の下に呑まれ、救いを待ちながら消えていった。
昼寝中の猫の餌を盗み食いをするハト。滝川定雄家の縁側で
             (提供 上の宮・滝川定雄さん)
明治43年(1910)8月、多摩川の堤防が決壊して鶴見川に流れ込み鶴見川は大洪水。写真は旧東海道の鶴見神社付近(現鶴見中央2丁目)の浸水状況。後方の杉並木は大正6年(1917)の大津波で枯死
            (提供 鶴見中央・金子元重さん)
昭和30年(1955)6月12日、現在の向谷交番前を行く野辺送り。東寺尾3丁目の故齋藤粂次郎氏の葬列。これがこの地域で最後の土葬となった。法衣姿は寶蔵院住職・國田隆稔さん
      (「近所の風景今昔」齋藤實作品集から)
鶴見川の端にあった山本煉瓦工場。乾燥レンガを窯に詰め、火を入れる専門職の作業
である“窯結”
  (撮影年月日、不明)(提供 矢向・高橋秀和さん)


明治・大正期、鶴見川岸に8000坪、従業員250人のレンガ工場、山本一平商店(通称山本煉瓦)があった。現在地は上末吉2丁目の京浜自動車教習所から鶴見川をはさみ矢向1丁目にかけての一帯。この工場の建物は関東大震災に遭ってもびくともしなかったが、昭和15年、蛇行する鶴見川の直線化工事のため国から移転を命じられ、廃業に至った。同工場跡の大半はいま鶴見川の川底にある。
 明治・大正期の全盛期には鶴見川の船便で東京駅や丸の内のビル街、横浜の赤レンガ倉庫など官庁街の建設現場に多く出荷されていた。このほど、経営者の甥、高橋秀和さんが当時の写真を捜し出し、公開することとなった。

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