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写真集「わがまちの昔と今」

第2巻 川崎中部編

昭和7年、丸子の渡し。丸子橋が昭和10年5月に開通するまで丸子の渡しは中原街道の東京側と神奈川県側を結ぶ重要な陸上交通手段であった。土手の向こう側に見える鉄塔は東急多摩川線(旧目蒲線)、右方向に沼部駅、左に多摩川駅(旧多摩川園駅)

                  (提供 山本五郎さん)

昭和9年、現在の丸子橋付近の多摩川河川敷で野球大会。左上に初代丸子橋の工事中の橋脚が見える
               (提供 原修一さん)

昭和42年8月、京浜地区最大の花火大会だった名物「丸子の花火」
                  (提供 小野基一さん)

昭和40年、皇族一行が丸子橋下での日本赤十字・救難演習を視察された。手前中央の昭和皇后陛下はまだお若く、ご成婚6年目の美智子皇后陛下がひときわお美しい
                  (提供 水島治良さん)
昭和32年、幅員わずか1.5b、木造のガス橋。後方の建物はキヤノン下丸子工場
               (撮影 故山田勇さん)
昭和6年当時の新丸子駅。右手が西口駅舎。当時はまだ武蔵小杉駅はなく、右手のホーム後方に上り電車が元住吉駅から来るが、ホームにはただ一人の乗客。左手の下りホームから電車が元住吉駅に向け発車するところ。
               (当編集室所蔵写真)
昭和21年冬、戦災で焦土と化した新丸子西口医大通り。後方の白い建物はコンクリート製だったため焼け残った日本医科大学。
              (提供 小野基一さん)
一両電車がグラウンド前駅(現武蔵小杉駅)。この写真は撮影年月日が不明だが、左上に見える水道タンクは昭和13年に川崎市が東急に売却、それを東急が撤去したので撮影はそれ以前と推測できる。駅右後方に第一生命グラウンドの野球場のバックネットが見える。当時の駅名「グラウンド前駅」の由来はそこにある。
                (提供 安藤十四秋さん)

昭和21年6月8日、昭和天皇・皇后両陛下に宮中で川崎市青年団連盟理事30名。左手の侍従二人の前が昭和天皇陛下と皇后陛下。
             (提供 西村みさをさん)

大正15年開通時から昭和5年頃まであった元住吉駅の待合室とホーム。
乗客が少ないため出改札口はなく、切符は車掌が車内で売っていた。
昭和32年4月、川崎市の名所「井田堤の桜」。この標識板は矢上川と江川の合流点に建っていた。後方の橋は昭和橋。
              (提供 橋本禎二さん)
明治時代、溝口の「はかり田中屋」の所は大山街道端の人力車乗り場で高津村の中心地であった。
                   (提供 鈴木穆さん)
上の写真と同じ場所の現在。旧大山街道と府中県道との交差点。
明治33年、世界的な陶芸家で人間国宝の浜田庄司は、上の写真の家、大山街道端の和菓子屋「大和屋」で生まれた。浜田庄司が6歳のとき、左から3人目の男の子。 
               (接写協力 ケーキの大和)
昭和30年頃の武蔵新城駅北口。右手は交番
              (提供 井上弘明さん)
昭和31年3月、上小田中が本社だった頃の富士通信機製造鰍フ昼休み
                  (提供 故山田勇さん)
昭和11年の向河原駅周辺と日本電気玉川工場
向河原駅に隣接して日本電気玉川工場の第1本館と第3工場が完成。右手の第1、第2 工場は工事中。線路手前の農村地帯が現在の向河原商栄会
       (協力 日本電気葛ハ川工場総務課)
紙芝居が来る町角、昭和33年
お客が少ないのが気になるが……
昭和20年の新鶴見操車場。左手の丘は夢見ヶ崎。
小倉跨線橋から望む
       (提供 笠松治良さん)
昭和29年、蟹ヶ谷の丘から千年、子母口、新城方面を望む。
右手中央に県営子母口団地が完成したばかり。
                 (提供 森昇さん)

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