本誌編集発行人 岩田忠利

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no.47 日本書道界の重鎮“等々力天皇”
タイトル/画像 本文
文化勲章受章者
青山杉雨(さんう)先生


尾山台の自宅で


昭和63年と初対面の頃、文化功労者の受賞された直後だった



ご自宅の庭で
青山先生の書



第19回日展作品(1987年)

生涯一度も個展をやったことがない青山先生は「自分の気に入らない作品は破って捨てて死にたい」と仰っていた
 
 「ウチの商店街に天皇陛下(?)が住んでいる」

1987年(昭和62年)の秋、私と義母は第41号の「等々力・尾山台特集」を出すため、大井町線の等々力と尾山台の街を歩いていた。とくに東横沿線でなく、大井町線沿線の街なので、『とうよこ沿線』は地域の人たちに馴染みがなく、取材も広告集めも難航していた。その分、同じ店や人物を何度も訪ね、熱意と誠意を示すほか方法はなかった。
  尾山台商店街の中にある床屋さんを訪ねたときのことだった。主人が私にこんな一言を笑顔で話した。
 「ウチの商店街の圏内には“天皇陛下”が住んでいるんだよ」。
  よく訊けば、日本書道界の頂点におられる方で、住所が世田谷区等々力ということから書道界では“等々力天皇”と呼ぶのだそうだ。略図を描いてもらい、さっそくその足で訪ねることにした。果たしてその天皇陛下に“謁見”できるか・・・。

 飛び込みの初対面なのに、毎号100冊の注文を

 静かな住宅街の広めの通りから玄関先まで20bほどの、いわゆる小道の街道がある家だった。表札「青山杉雨(さんう)」が掛かっていた。用件を奥様らしき女性に話すと、庭先におられるらしいご主人に向かって大きな声で「あなた〜、お客様ですよ〜!」。返ってきた言葉が「用件を聞けぇ〜!!」。
 近所中に聞こえるような大声だ。庭木の手入れでもしていたのか、手をタオルで拭き拭き、現れた。長身で恰幅のいい、まさに天皇にふさわしい貫禄のある風貌、この人が“等々力天皇”、青山杉雨先生だった。
 不意に訪ねた私と義母が恐縮していると、青山先生は居間のほうを向いて怒鳴った。「お〜い、お茶だぁ〜!」。居間に通され、『とうよこ沿線』のバックナンバーをお見せし説明すると先生は熱心に見入っておられた。1時間ほど話していると、青山先生の口から意外な言葉が飛び出した。
  「あんた方は、エラい! こんなタイヘンなことを続けているとは、驚いたなぁ〜。これからワシにできることがあったら、協力するよ。とりあえず次の新刊から毎号100冊、ワシの家まで届けてくれ給え!」。
 初対面の青山先生から、まさかこんな嬉しい言葉をいただけるとは?!。
 毎号100冊も買うという先生の太っ腹に驚いたが、それにしても、こんなに大量の雑誌をどのように処分するつもりなのだろうか、先生のそのほうが心配だった。あとで新刊をお届けしたとき、処分の仕方をうかがうと、青山先生は「処分先は山ほどあるよ。心配するな!」。

 サントリーへの推薦文。「日本の書家100人展」

 
平成2年の1月、大阪のサントリー文化財団から電話があった。
 「貴団体を神奈川県内の新聞社とテレビ局がサントリー地域文化賞候補として推薦してきました。関係者の推薦文を添えて書類を出してください」だった。青山先生に推薦文をお願いすると、以下のような文を綴ってくださった。
 <一冊の雑誌を手にした編集者が突然わが家を訪ねたのは、一昨年のことだった。『とうよこ沿線』と言うから、すぐ東急のPR雑誌だと思った。しかし、訊けば沿線住民が余暇を利用して作っているものだそうで、内容は意外に充実しており、沿線住民のリアルな生活描写が魅力的であった。
 創刊当時から資金を調達するために広告をあつめることに苦労したばかりでなく、取材のために最寄り駅をくまなく歩き回り、さらに編集、配本など昼夜を問わない活動は並大抵なものではなかったようだ。私も啓発的な小さな書道雑誌を発行しているが、とてもこれと比べ物にならないくらい、楽なような気がした。(以下略)>
 先生からはそんな過分なお褒めの言葉を頂戴するだけでなく、青山先生の作品が展示される書道展招待状を送ってくださったり、取材を陰で応援してくださったりした。
 なかでも上野松坂屋での「日本の書家100人展」では紫式部・清少納言・紀貫之・菅原道真など日本の歴史上の99名の名筆家の作品と並んで、青山杉雨先生の作品が展示されていた。先生が生存する唯一の現代書家だった。先生の偉大さと真価は計り知れないものだと実感したのだった。

 八百屋の奥さんと間違えた大女優の電話

 56号の自由が丘特集のときだった。一人の元気のいい女性の声で電話が掛かってきた。
 「岩田さんですか? 自由が丘特集だそうですね〜?」。咄嗟に、私は或る女性の声を連想した。
 「あ〜、しばらく! 九品仏駅前の八百屋さんの奥さんでしたね〜?」と応えたのだった。
 と、電話の向こうの女性は急にトーンを落として「いえ、私は青山杉雨先生のご紹介で電話している池内淳子です」。
 え〜っ、“テレビドラマの女王”で君臨していたあの池内淳子とは?! まさか大女優、池内淳子さんが直接私に電話をくれるなんて夢にも想像できなかった。その場で平身低頭に謝り、なんとか後日お宅を訪ねる約束をして何とかその場は収まったのだった。
 そういえば、青山先生自身からうかがっていた話をその後で思い出したのだった。青山先生の若い頃、先生は自宅で書道塾を開いていた当時、そこに通っていた本名・中沢という女の子の印象を私にこう話した。「あの池内淳子は今じゃあ、バリバリの女優だけど、おとなしくて可愛いお人形さんみたいな子だったよ」。

 「ワシがその墓石に碑文を書いてあげよう!」

 日本芸術院会員で、文化功労者である青山杉雨先生。そのような偉大な先生に臆面もなく、いろんな雑事をお願いしていた自分という人間は、なんと面の皮の厚い人間だったのだろう? 上記の毎号100冊のお買い上げ、41号から連載のタイトル原稿「鬼人粋人傳」の書や誌面へ寄稿のお願いから10周年記念パーティーへの出席依頼などのお願いまで、いつも「うん、いいよ」の先生のお言葉に甘え、本当にいろいろとお世話さまになった。
 先生宅に伺った折、こんなことも。義父が亡くなり、墓地を買った話をしたら、「ワシがその墓石に碑文を書いてあげよう!」と青山先生ご本人がおっしゃった。その数日後、電話で「岩田さん、できたよ〜、取りに来てぇ〜!」。先生の落款付きの立派な桐の箱、その中に長さ1メートルほどの和紙に雄渾、闊達な揮毫<南無阿弥陀仏>・・・。
 青山先生の文字を彫った墓石は綱島台の長福寺境内にある。ここに私と一緒に『とうよこ沿線』全冊74号まで携わった義母・鈴木善子も眠っている。青山先生が墓石の碑文を書かれたのは、これが最初で最後ということで、愛弟子や青山杉雨信奉者の方々がその拓本を取りに時々見えるようだ。
 下記のとおり、16年前に永眠された先生だが、その先生の徳がこんなところにまで及んでいるとは、まったくの驚きである。

 昭和−平成の書家、青山杉雨先生は昭和41年に「詩経の一説」で芸術院賞を受賞し日本芸術院会員に。篆書(てんしょ)、隷書をもとに独自の表現様式を確立したとして昭和63年文化功労賞受賞し文化功労者に。大東文化大学教授。平成4年、文化勲章受章。その翌年、平成5年2月13日逝去。享年80歳。

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