更新 2015.10.15

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132 平成26年(2014)2月21日、神奈川東ローラリークラブで講演






スライドを映しながら講演する岩田。左の人は同ロータリークラブ会長・伊東英紀さん




同ロータリークラブ会報から
 神奈川東ロータリー・クラブの例会場は横浜駅西口のホテルキャメロットジャパン(以前はホテルリッチ)5階のホール。 同クラブから今回で3回目のお招き。テーマは「写真が語る沿線」。沿線の中でも神奈川区・港北区・鶴見区のメンバーの皆様が多いということで3地区の戦中戦後の話を用意しました。
 
 港北区は「日吉地下壕」の話。ここは慶應大学日吉キャンパス地下に総延長約1キロに及ぶ地下壕の規模の説明を本誌『とうよこ沿線』掲載のイラストと写真で。ここに駐屯していた旧帝国海軍連合艦隊司令部とは? 複数の軍艦で組織する「艦隊」とは? 艦隊の中でも司令長官が乗船していて各艦隊に指示や命令をする艦隊を「旗船(きせんorはたぶね)という。
 その親船の例として帝国海軍史上最大、当時世界最大の軍艦といわれた戦艦大和の写真でその規模を説明。乗員3332名、全長262mの最後・・・。
 また親船の主、司令部長官には過去どんな人物がいたか。明治時代に連合艦隊を率いて日清戦争と日露戦争に大勝した東郷平八郎。大国アメリカとの戦争を誰よりも反対していた山本五十六は、司令長官の任につく運命となり、あの真珠湾奇襲攻撃の指揮を執った。昭和18年、戦死した山本五十六の後、親船に乗って指揮した鈴木貫太郎は敗戦後の日本の総理大臣として戦後の日本の窮状処理に苦労しました。

 終戦前の親船は米軍飛行隊に次々猛攻撃をうけ、戦艦「長門」、戦艦「大和」、戦艦「武蔵」と海中に沈んだ。最後の親船は軽巡洋艦「大淀」。それも、もはや南太平洋の海上で指揮を執るのが危うく、木更津沖で戦々恐々としていた。一刻も早く、司令部をどこかに移さなければならない。

 ついに、着目したのが慶應大学日吉キャンパスの地下。そこに「日吉地下壕」を掘って司令長官以下600名のスタッフを駐屯させ、その任に当たらせることに。海軍にも設営部隊はあったが、それだけでははかどらない。主に朝鮮半島から、一部を支那(現在の中国)から現地人をどのように連れてきたのか・・・その数700人を穴を掘る労働力として集め、昼夜2交代の突貫工事で過酷な激務に当たらせたのです。工事は昭和19年7月に着手、工期3カ月足らずの9月に完成しました。地下壕の天井や壁面は厚さ40センチ、高さ3メートル、幅4メートルのコンクリート。キャッチボールができる広さです。一部狭い個所があるものの、日吉キャンパスの地下を網の目のように走っている。その総延長は前述のとおり約1キロメートル。
  この地下壕掘りの犠牲になったのは、朝鮮半島や中国の労働者と土砂の排出口にあった日吉・宮前地区の民家。真夏の過酷な労働と劣悪な食事で息絶えた人たち。土砂の排出口は米軍機が空から察知、安斎さんの家族は人体の破片すら残らず木端微塵の爆撃をうけたのでした。

 わが国は韓国と中国との間で領有権問題と歴史認識問題が叫ばれている最中、加害者だったわが国の総理大臣がA級戦犯の眠る靖国神社参拝とは…? つい最近、韓国ではわが国のこの強制連行、強制労働が社会問題化しています。日本としても“知らんぷり”では済まされないことです。
 被害者だった韓国や中国の立場にも冷静に立って真摯な態度をとるべきではないでしょうか。
 こんな話を神奈川東ロータリー・クラブの皆様の前で偉そうにしていましたら「もう定刻です」と役員の声。用意したテーマの半分もできませんでした。


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 生活に密着した情報を幅広く取り上げる「暮らし ワイドな窓」、3月1日スタート!





 ロゴ・デザインは、配野美矢子さんです。
 
 親子3人の顔と家並みを配したイラストがアットホームな温もりを感じさせます。
 日常生活で知って得する情報なら、「料理、買い物、家事、教育、旅行、健康、防災、自然、環境、気象、戦争、平和、経済、美術、手工芸、動物、植物、地域問題、文化・歴史、ペット、運動、創作、写真、交通、乗り物、趣味、グルメ、テレビ・ラジオ・新聞・本などメディア、パソコン・スマホ等ソシアルメディア・・・などなど」、OK。

 テーマは硬軟どんなことでも受け付ける、投稿の“窓”をひろ〜く開けてお待ちしています。    

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雑誌『田園都市生活』が提供の古写真23枚で10ページの特集号(2014年10月10日)発行






東急沿線のライフスタイルマガジン
53号 竄ヲい出版社


古写真で見る
わが街 武蔵小杉・元住吉・日吉


武蔵小杉エリア


元住吉エリア


日吉エリア


岩田忠利に聞く
語り継ぎたいこの街の歴史

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平成27年2月21日、CD版「写真が語る沿線」が朝日新聞神奈川県版に掲載




 取材・執筆は、3度来室された朝日新聞田園都市支局・支局長の日高敏景さんが担当されました。 
 
 4段ぬきの紙面に写真7枚という大きな記事が県内一帯に配布されたうえに、朝日新聞のホームページ、デジタル版にも載せていただき、横浜・川崎・横須賀・相模原・小田原・鎌倉・伊勢原など県内各地の方々から反響がありました。
 


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平成27年8月27日、Web「暮らし ワイドな窓」719編をCD版に集大成




 平成14年3月1日スタートした上記133で紹介の「暮らし ワイドな窓」は、前半の74編までは読者投稿の記事。徐々に投稿が少なくなり、沿線誌『とうよこ沿線』の連載を“復刻版”として未来に残すことにし、読者投稿は受け付けしだい、その間に載せました。
 
 『とうよこ沿線』連載“復刻版”は、以下のとおりです。
 
 75編から「駅名の秘話」第6回。84編から連載「地名……生きている沿線の歴史」24回。
 116編から「とうよこ沿線物語」22回。140編から「沿線の河川」16回。
 158編から「沿線の町並み」19回。続いて「名門旧家を訪ねて」9編。「鬼人粋人」4回。「われらはコロンブス」17回。「ペットくん登場」27回。「私の町」16回。「沿線風土記」26回。
 なかでも、フランス人のアルメル・マンジュノさんの「不思議の国のアルメル」は、昭和59年10月からちょうど10年間のロングラン、322編から36回の連載でした。
 323編からの古老の話「誌上座談会」8回。「東横沿線の民話」7回。339編からの「編集室の社会活動」60回。
 409編からの「ひとさじの塩」は21回。424編からの沿線の高校が登場の「わが母校」は14回。
 465編の「えんせん族」11回。「ケーキでdeデート」16回。「スチュワーデス 旅のスパイス」11回。
 501編からの「Hotline」26回。「作品まち人」7回。538編からの「表紙に寄せて」は本誌と写真集で81回。
 621編の「沿線の自然」が5回。626編の「編集長の編集の音」が74回。704編の「アルメルの艶腺漫遊記」10回。
 最後に714編から719編の、亡き義母・鈴木善子の「秘境の船旅」6回。



ジャケット



レーベル
 

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 平成27年9月25日(金)、「サロン日吉『なかよし』」でスライドショー




 日吉地区の中高年者の皆様が「お互いに近所に住みながら触れ合いの場がない」との声から「コヒーでも飲みながら語り合いましょう」と発足したのが「サロン日吉『なかよし』です。日吉駅西口駅前周辺の「日吉台町」とその周辺一帯「日吉町」、西北部の「常盤台」の皆さまで構成されています。例会は3地区持ち回り、今回の当番は日吉台町(代表・小野寛子さん)です。
 4カ月も前から小野さんから頼まれ、いよいよその当日……。この日ばかりは晴天をの願いもむなしく、かなり強い雨が降り続く悪天候。受付の役員さんたちは盛んに来場者の出足を心配されていました。でも、それも杞憂でした。足場の悪いなか、皆様が傘をさし、身支度もしっかりと59名が日吉町自治会館に見えました。「こんな悪天候にもかかわらず日吉の昔の写真が見られるとあって、予想外の多くの人が来てくださいました」と小野さんは胸をなでおろされる。
 
 タイトルは「写真で見る日吉の歴史――東横線開通から昭和40年代まで――」。
 
 第1編は、日吉の草創期。昭和3年、東京横浜電鉄株式会社が「日吉台田園都市分譲地」として売り出し、現在の日吉駅西口に5本の放射線状の道が走る街区を造成した直後の風景から始まります。その後、日吉の農家でイチゴやイチジクの栽培が有名になり、東京からのイチゴ狩りの家族連れが訪れ、いつもガラガラ空き電車の乗客増員に一役買うことに。
 
 第2編は、戦中戦後から昭和20年代の日吉。昭和9年に慶應義塾大学予科が三田から日吉に引っ越して開校したものの、昭和20年代までの日吉は、樹木が生い茂る昼なお暗い赤門坂や中央通りを肥え樽積んだ牛車が横切り、矢上川の土手でお花見が楽しめる自然がいっぱい、長閑な東京郊外でした。
 
 第3編は神武景気やいざなぎ景気など高度経済成長を迎えた昭和30年代。一般家庭では自動車・カラーテレビ・クーラーなどが普及した“新3C時代”。日吉地区での象徴は、日吉団地と南日吉団地といったマンモス公団集合住宅団地が建ち、人口は一気に増え、バス路線の新設・道路整備など交通体系が改善され、日吉の住環境が最も変革した10年間でした。

 第4編は43カ月続くいざなぎ景気で日吉の人口流入が急激の昭和40年代。日吉地区の小中学校の発展ぶりがそれを表します。
 昭和42年日吉南小学校開校、昭和48年に矢上小学校と駒林小学校が開校と6年間に3校も増えました。その児童数の増加で昭和45年の日吉台中学校は1年生8学級に、翌46年には1年生が10学級に増え、さらに翌47年に1年生が12学級、そして49年に同クラスが13学級、51年14学級になるといった勢いでした。
 日吉地区の人口増加は昭和22年から48年の間が右肩上がりの急成長期。特に日吉本町・日吉町・下田町が絶頂期で、3町とも昭和22年の2,3千人がそれぞれ1万5千人から2万人に急増したのでした。その後昭和50年代以降、人口増加が遅れていた箕輪町が伸びた以外は、日吉の人口はようやく落ち着き、住環境は量から質へと進化していきました。

 なかでも平成の時代(1989年以降)、日吉駅を取り巻く鉄道網は目を見張る発展ぶりです。従来東急東横線一本だけだった日吉駅にまず都営日比谷線が乗り入れ、東横線の元町・中華街への延伸、2008年(平成20年)に横浜市営地下鉄グリーンラインの始発着駅となり、さらに東急目黒線と都営三田線の乗り入れ……。
 では、これだけの大変革で一日平均どれほどの乗客が日吉駅を利用しているのだろうか? 昨年、2014年(平成26年)の統計では東急線が11万6238人、地下鉄が3万6292人、合計15万2530人が利用しているのです。

 東京横浜電鉄の開通当時、日吉駅は改札口が西口だけで、一両電車の乗務員は夫婦二人。旦那が運転手、妻が車内で切符を売っていたのです。日吉駅からの乗客が一人もいないときもしばしば。そんな時は電車が日吉駅を通過していたのでしたが……。
 
 その日吉駅が2019年(平成31年)には、相鉄線と連結する“神奈川東部方面線(仮称)”の始発着駅となって新横浜駅経由で相鉄線西谷駅に繋がるという夢のような計画の実現が、最早4年後です。それまで、できることなら生きていたいものですねぇ。
 


開演前の会場。後方は役員が受付で来場者を待っています

撮影:阿部匡宏(当日の設営スタッフ)


来場者が着席、代表・小野寛子さん挨拶の後、プレゼンター・岩田忠利が立つ

写真提供:港北区役所


いよいよ開演、「写真で見る 日吉の歴史――東横線開通から現在まで」

写真提供:港北区役所
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