更新 2013.9.10

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01
第1回設立準備委員会開催




 1980年2月4日、神奈川県中小企業指導士で経済ルポライターである岩田忠利は、「東横沿線を語る会」設立とコミュニティー誌発行を思い立ち、義母鈴木善子ほか3名に呼びかけ、東横沿線の地域特性などの研究と仲間募集開始。


02
新聞折り込みチラシで仲間募集




 1980年3月。「東横沿線の皆さん、こんな活動に参加しませんか」という意見広告チラシをつくり、朝日新聞専売所(日吉・菊名・武蔵小杉)を通して8000枚を新聞折込みで配布。その結果、賛同者19人現れる

 
「こういう折込み広告、初めて見た! 私も参加したい」 「さすが東横沿線、住民が住民の雑誌を作るなんて、素晴らしい!」そんな賛同や励ましの電話が矢継ぎ早に掛かってくる。大学生、主婦、会社員、商店主・・・。なかには産経新聞横浜支局長や朝日小学生新聞編集長からも。

 その数日後のこと。三十代の女性のお客さんが「うちにこんな変わった折込み広告が入っていたんですが、この話を具体的に聞きたいんですが・・・」と名刺を差し出しました。「朝日新聞横浜支局 記者 越村佳代子」の名刺。その2日後、彼女から電話「明日の横浜版と川崎版に載ります」。

 翌早朝、日吉駅売店で朝日新聞を買って見ると、なんと地方版の題字の横、トップ記事・・・。それからというもの、電話が鳴りっぱなし。

A4サイズの紙に黒一色で片面だけの地味な新聞折込みチラシ。
 派手なカラーの多色刷りの売り込みチラシのなかで異色だった


03
「東横沿線を語る会・発起人会」開催




 1980年4月1日、沿線住民17名が設立発起人会に出席。会の名称、会の所在地、活動内容、会員資格、代表者選任、機関雑誌の名称、編集方針、運営費の捻出方法などを決議する。
本部・・・横浜市港北区日吉4-4-17
会代表・・・岩田忠利
会員資格・・・沿線住民及び沿線勤務者なら年齢・職業・国籍を問わず、門戸を開放する
定款と会則・・・住民の自発性・個性・良心を尊重し、原則として設けない。

毎日新聞(1980年5月8日付け朝刊)掲載写真から転載。

 発起人会の会議中、横浜支局の飯塚記者は、出席者の発言が消極的になるのを恐れてツイタテの陰の机に座って取材していました。それを知っているのは、私・岩田だけ。重要な会議だけに活発にアイデア、意見が続出! 3時間以上も延々続く会議に私は飯塚記者のことが気がかり。トイレは? 咳払いは?
04
創刊号出稿後、ローマ法王謁見随行員としてヨーロッパの旅




 1980年6月17日〜28日 世界のキリスト教信者7億4000万人の主導者であるローマ法王、パウロU世を日本仏教会副会長・川田聖見氏(真言宗豊山派管長。総本山・長谷寺化主)が表敬訪問するため、随行団37名の一人として私も川田特使の計らいで参加。創刊号の原稿を出稿し終え、出来栄えが気になったが、気分転換には良い機会。旅はローマ〜バチカン〜フランス・パリ〜イギリス・ロンドン〜西ドイツ〜東ドイツ〜西ドイツ〜帰国(本誌NO.2 P.70参照)

写真はローマ法王、パウロU世とバチカン宮殿サンビェトロ広場で5万人の大群衆注視の中での川田聖見団長(手前)との会見シーン。右の男性は通訳。1〜2メートルの至近距離で撮影
共産圏の東ドイツとの国境を仕切る“ベルリンの壁”の前で。
 政治と無関係の宗教団体ということで特別に共産圏の東ドイツへの入国許可が下り、市内観光。だが、バス内に警官が乗り込み、撮影は一切禁止。


05
創刊号“夏”(本文52ページ)発刊と3班編成で駅頭でキャンペーン





  1980年7月7日、創刊号発刊。全会員が参加し3班編成で東横線中目黒駅〜反町駅の18駅改札周辺で乗客に手渡しで無料配布の「創刊記念キャンペーン」実施。

ミス横浜の天野由加さん(綱島在住)も東横線各駅での創刊号無料配布キャンペーンに参加
創刊号の反響。読者からたくさんの激励、感謝などが。なかに劇作家・北条秀司、水谷八重子さんからの便りも
創刊号表紙
 
06
テレビ朝日が「主婦がつくる沿線雑誌」と題し15分間放送





 東横沿線をヘリコプターで空撮した画面がクローズアップされた後、自由が丘の商店街で広告セールス中の活動や編集会議の模様、参加した主婦会員の感想などを中継。

テレビ画面。写真は菊名駅近くの錦が丘の住宅地。
 テレビはカラー画面ですが当時の雑誌本文がモノクロのため写真もモノクロ
東横線の電車を下に見ながらアナウンサーにマイクを向けられる会員・吉谷恵美子さん。日吉で

07
創刊第2号“秋”(本文108ページ)発刊




 新聞各紙・テレビ・ラジオで創刊号を取り上げたため、その反響は大きく、一気に会員が増える。意欲ある会員の担当誌面を増やしたために地域雑誌異例の108ページに。

 配本は無料配布で法人・個人問わず希望者には最高100冊進呈。会員には一人当たり最高300冊まで進呈。新刊が印刷所から納品されると、皆さんどこで聞きつけたのか、翌朝編集室のシャッター前の綱島街道には新刊を受け取りに来た車がずら〜っと並んでいる。

 創刊号の本文紙数56ページが、会員が一気に70人を超え、勢いページ数が増えて本文108ページになった第2号表紙。
 以来、試行錯誤を繰り返しながら平成12年7月発行の第74号“棗(なつめ)”まで20年間沿線雑誌「とうよこ沿線」を発行。
 
 その後、同時進行で発行してきた写真集「わが町の昔と今」シリーズの発行に専念。

 

08
「第1回外国人と日本語で話す集い」、慶応大学日吉校舎7教室で開催




 1980年10月19日、慶応大学日吉校舎で。定員60名の4倍を超える申込みと好評。青山日本語学校と提携、同校で日本語を学ぶアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・オーストラリア・フィリッピン・台湾・イスラエルの8カ国、18名の沿線在住外国人が参加。教室は大学が休みの日曜日に7教室を開放してもらう。

1グループ、外国人3人・日本人7人で編成して6グループ。グループごとにテーマを決めて話し合う。
グループの代表が話し合いの結果を参加者全員を前に報告し、質疑応答。
 30年前のこと、まだ外国人は少なく、来日して日本語を学び、日本文化を知りたいという人たち、どなたも紳士淑女。もちろん、日本人も。

09
手作りの本(製本)教室





1980年11月16日、日吉地区センターで開催。講師・川崎常子さん


10
長洲神奈川県知事も愛読者。知事室訪問




 1980年10月17日、長洲一二神奈川県知事が「とうよこ沿線」の創刊号と創刊2号をどこで手に入れたのか、すでに読んでいるという情報を耳にし。長洲知事を表敬訪問することに。そのときの知事との会話を同行した鈴木善子は本誌第2号に以下のように書いている。

 「これがかの有名な、「とうよこ沿線」ですか」と長洲知事さんの開口一番。「1号も良くできていたが、また一段と充実しましたね」。「これだけの本を作るのは大変だったでしょう」。「タウン誌はいっぱい出ていますけど、発刊の動機そのものが、この雑誌はユニークですね」。「私は新聞やテレビで見て、期待してたんですよ。こういう雑誌はみんなで育てていきたい」。「機会があれば、私も書きますよ」

神奈川県庁の知事室で。左は本誌を手にする長洲一二知事。右が私

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樹木名を号名とする創刊3号“柊”発刊




 1980年12月1日第3号発刊。本号から沿線の自然保護を啓蒙する意味から緑の象徴である「樹木の名前、一文字」を号名とし、今後継続することに

第3号“柊”表紙。写真は大倉山公園で遊ぶ子どもたち。撮影:岩田忠利

 この3号から誌名「とうよこ沿線」の右に号名を掲載。
 木偏に「冬」で柊、木偏に「春」で椿、「夏」で榎、「秋」で楸、というように毎号の号名を樹木名、一文字の表記にし、それが最終刊、第74号“棗(なつめ)”まで続ける。
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第2回外国人と日本語で話す集い




 1981年1月25日、慶応大学日吉校舎で前回の申し込み漏れの人が対象。

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第4号“椿”から有料化、1冊200円




 1981年3月1日、第4号“椿”発行。本誌購読を希望する長洲一二神奈川県知事と伊藤三郎川崎市長を表敬訪問した際、有料化して継続するようアドバイスを受け、有料化に踏み切る。東横線・大井町線・目蒲線の駅売店、沿線の書店・喫茶店・レストラン・病院売店など普及協力先で販売。

 1980年10月、伊藤三郎川崎市長を市長室に訪ねる。
 このとき伊藤市長は私に「とうよこ沿線」の有料化を強く推し進めた。

 「こういう立派な雑誌なら読みたい人がいっぱいいるでしょう。無料では本当に読みたい人の手に届かないのでは? 日本人の悪い習性に『タダなら貰わなければ損』というのがあって、真の読者ではないのですね。お金を出しても読みたい人が読者です。川崎民家園も最初は無料でした。無料の入場者は民家園を見学するのが目的ではなかったのですね。有料にしたら施設を汚さないでちゃんと観るように・・・。「とうよこ沿線」の有料化を私は勧めますよ」

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読者300人にアメリカ芙蓉の苗木プレゼント




 1981年3月から4月までの日曜日、中原区井田・高尾重達さん提供の苗木を読者に進呈。

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えんせん農園開園。読者と野菜作り





 1981年5月から横浜市港北新吉田町の約400坪の畑を借り、読者と野菜作り

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本誌7号“萩”敬老の日プレゼント2000冊




 1981年9月10日、第7号“萩”を沿線在住・在勤の65歳以上の人に2000冊進呈。


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元住吉西口商店街で移動編集室



 1981年10月4日、元住吉西口商店街で会員50名と楠本憲吉先生ら顧問4名が参加した移動編集室。「住民の街への要望」アンケート調査や住民交流の「カラオケのど自慢大会」、フィナーレは会員による信州産直リンゴなどの叩き売り大会も。
 
本会主催「素人のど自慢大会」。
トンコ節で一世を風靡した往年の歌手・久保幸江さん(元住吉在住)も、ステージに上がって・・・♪あなたがくれた 帯どめの〜
産直の信州リンゴなどの叩き売りシーン。市価の半額以下、飛ぶように売れました


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デスクキャップ制スタート





 1981年11月の第9号“梅”の取材・編集から岩田編集長を補佐する編集面のリーダー役、デスクキャップ制を導入。初回は9号のデスクキャップに佐藤保子さん(大倉山・主婦)が務め、以後会員が毎号交代し、第37号の高橋(旧姓斉藤)かすみさんまで続く。


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読者と会員の集い ・・・ 丹沢湖と富士見窯見物の一日陶芸教室




 1982年3月28日、読者と会員の集いを貸し切り大型バスで丹沢湖めぐりと御殿場の大自然の中の陶芸センター、富士見窯で手づくり陶芸を楽しむ
御殿場の陶芸センター、“炎の里 富士見窯”の広い、大きなガラス張りの陶芸場。雪をかぶった富士山を見ながらどなたも子どもに返ってキャ〜キャ〜、陶芸に興ずる
左は息子・岩田大助、右が義母・鈴木善子


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